ケーニヒスベルク城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 09:10 UTC 版)
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ケーニヒスベルク城(Königsberg Castle) | |
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![]() 1885年の写真 ![]() カリーニングラード州の位置 ![]() カリーニングラード(旧:ケーニヒスベルク)の位置 |
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座標 | 北緯54度42分36.78秒 東経20度30分38.84秒 / 北緯54.7102167度 東経20.5107889度座標: 北緯54度42分36.78秒 東経20度30分38.84秒 / 北緯54.7102167度 東経20.5107889度 |
種類 | 城・宮殿 |
施設情報 | |
現況 | 第二次世界大戦によって完全に破壊 |
ケーニヒスベルク城(ドイツ語: Königsberger Schloss, ロシア語: Кёнигсбергский замок)とは、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現:ロシアのカリーニングラード州州都カリーニングラード)に存在した城である。
第二次世界大戦で破壊され廃墟になった。1968年にソビエト連邦政府によって完全に破壊され、その後は「ソビエトの家」と呼ばれる建物が長い間建設中となっている。
歴史
プレゴリャ川が近くに流れ、交通の要衝であったこの場所には元々 Tuwangste と呼ばれるプルーセン人の砦が存在した。 1255年にドイツ騎士団によって侵略された後、この場所に土と木で臨時の砦が建造された。1257年に、石で作られた「Conigsberg」と呼ばれるオルデンスブルク様式の城が建造された。この城は16世紀から18世紀にかけて、幾度かの拡張と防御力の強化が行われた。
要塞は後に城に改築され、さらにドイツ騎士団総長の邸宅となり、そしてプロイセン支配者の邸宅となった。
1815年のブリタニカ百科事典には、「この豪華な宮殿には、柱を含めない大きさでは83.5 m X 18 mのホールがあり、見事な図書室が備えられている。ゴシック建築の塔は284段の階段を登ると高さが 100 mあり、とても遠くまで見渡せる」と記載されている。西側にはSchloßkirche(宮殿教会)があり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世らの戴冠式に使われた。
- 琥珀の間
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世からロシアのピョートル大帝に贈られた琥珀の間の装飾は、サンクトペテルブルク近郊プーシキンにあるエカテリーナ宮殿に移された。
1941年、ナチス・ドイツはプーシキンを占拠し、琥珀の間をケーニヒスベルク城に移したものの、その後行方不明となっている。
- 現在

第二次世界大戦で破壊され、長く廃墟が残されていたが1957年に現存していた塔が爆破され、テラスの基礎を除いてほとんどが破壊された。跡地(堀側)には、「ソビエトの家」(愛称は「埋められたロボット」)という建物が、戦後から長い間建設中のまま放置されている。工期延長の理由は、高層ビルの建設に耐える強度が地盤に無く、沈下する為、計画変更されたからである。これは「プロイセン人の復讐」などと揶揄されている。そして、1980年代後半に95%近く完成していたが「ペレストロイカ」後に、民営化の検討、そして裁判による売却無効などの混乱で中止になった。
2011年11月30日、カリーニングラード州知事ニコライ・ツカノフは、ソビエトの家は「カリーニングラードの街の恥」であり、取り壊さねばならないとコメントしている。[要出典]
2023年からソビエトの家の解体が始まり、2024年8月までに完全に撤去された。今後については不明である。
ギャラリー
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城の北東からの航空写真
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城の北東にある最も古い部位のハーバータワー
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城の北西
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中庭から西を見た所
関連項目
- ポツダム協定
- 琥珀の間
- ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ -ソビエト連邦の建築家で、戦後ケーニヒスベルク城の再建運動を行った。
- en:Heart of the City (Kaliningrad)
出典
安倍雅史『消滅遺産: もう見られない世界の偉大な建造物』日経ナショナルジオグラフィック社、2018年。ISBN 4863134126。
外部リンク
ケーニヒスベルク城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 05:25 UTC 版)
「ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の記事における「ケーニヒスベルク城」の解説
1961年、ソ連建築家連合のカリーニングラード支部会長に就任した。彼はスターリン時代が終結した後のポチョムキン町建設の傾向を批判した。エレメーエフは残骸となっていたケーニヒスベルク城とケーニヒスベルク城大聖堂(英語版)を救おうとして、市民運動を起こそうとした。1965年10月30日、エレメーエフ、カリーニングラード建設計画の建築主事S・ソスキン、ソ連作家連合のカリーニングラード支部会長V・エラソフは連名でリテラトゥルナヤ・ガゼータ(英語版)にて公開状を出した。彼らは1964年3月になされた決議に基づき、城のロシア歴史に対する価値を説いた。エレメーエフはケーニヒスベルク城を救おうとする試みに関するインタビューで下記のように答えた: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}あのとき、わたしたちは城を保存しようとして大きな努力をした。しかし、社会における政治の影響が大きすぎたがために失敗した。特に、共産党はひたすら激怒した。ドイツに関する全てに。 いずれにしても、ブレジネフは城の即時取壊しを決定した。1965年に城が取り壊された後、エレメーエフは1965年12月12日に行われたソ連建築家連合の会合において、深い諦めと恐怖の念を表明した。彼は同時に地方政府の城の保存に関する「建築上の無理解」が明らかになったと強調した。ホッペは下記のように述べている: 12月12日に行われたソ連建築家連合の会合の雰囲気により、[エレメーエフは]責任報告において、城の保存に関する地方政府による「剪断」により、建築の問題に対する「無理解」が明らかになった、と記した。原稿では「しかし、わが市の首脳部はこの好例において、建築家と大衆を無視することは間違いであると理解した。」と続いたが、紛争の結果に直面して、このコメントは原稿から消された。
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