ケーニヒスベルクのソクラテス
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「ヨハン・ゲオルク・ハーマン」の記事における「ケーニヒスベルクのソクラテス」の解説
1759年にハーマンは、ベーレンスの姉のカタリーナに求婚するが、ベーレンスはこれを拒否し、不快感を示す。また、回心後毎日神に祈りを捧げ、懺悔しているハーマンを見て、商人の精神を根付かせようとしたベーレンスはさらに困惑する。結局破局に終わり、ベーレンス商会を辞めて、郷里であるケーニヒスベルクへと帰った。しかし心配したベーレンスはハーマンを有用な商人へと再び戻すため、友人でもある哲学者カントに協力を呼びかけ、ハーマンを説得させようと、ベーレンスもリガからケーニヒスベルクと急いだ。ベーレンスとカントはかつてハーマン自身も称賛していた有用な商人に戻そうと説得したが、焼け石に水であった。カントらの忠告には敬意を示すものの、ただハーマン自身は、キリスト者にとっては神への祈りこそが仕事であるという。これは、当時のプロシアを支配していたフリードリヒ大王による啓蒙専制君主による国家支配に対する抗議であるとカントへ語っている上、自身の特異な考えも自覚しているようで、一概に無職者に甘んじたいということでもなかったと言われている。このような特異なハーマン自身の思想を綴ったのが、代表作でもある「ソクラテス回想録」である。
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