ケーニヒスベルク包囲戦とハイリゲンバイル・ポケット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 23:55 UTC 版)
「東プロイセン攻勢」の記事における「ケーニヒスベルク包囲戦とハイリゲンバイル・ポケット」の解説
効果的にドイツ中央軍集団を包囲したことにより、ソビエト赤軍は東ポンメルン攻勢(英語版)において、ポンメルンのドイツ軍を撃破しながらベルリンという最終目標へ向かうために北側面で考えられるあらゆる脅威を取り除くことに集中することができた。東プロイセンから脱出して全滅を救おうとしていたラインハルトとホスバッハは司令官を罷免され、北方軍集団と改称された軍集団司令官にはロタール・レンデュリックが任命された。ラインハルトは「これ以上、何も言うことはない」と言い残し、指揮を放棄した。撃破された第3装甲軍司令官ラウスと司令部要員は新たな部隊に割り当てられた。一方、防衛している部隊はチェルニャホフスキーの部隊により、3つに分断されて包囲されていた。 第4軍所属の約15個師団はフリッシュ潟のハイリゲンバイルで包囲されていたが、これはハイリゲンバイル・ポケット(英語版)として現在知られている。激戦の後の3月29日、これらの部隊は殲滅された。 第3装甲軍の残存部隊(第4軍の指揮下に置かれた)はケーニヒスベルク包囲戦で孤立していた。4月9日、ドイツ、ソビエト両軍は大きな犠牲を出した後、ケーニヒスベルクはソビエト赤軍によって占領された。この後、ダンツィヒ湾(英語版)周辺の残存部隊はディートリヒ・フォン・ザウケン指揮下が全体指揮をとる東プロイセン軍(英語版)の元で再編成された。 3つ目のグループ(第XXVIII軍団、もしくはザームラント軍支隊(隊長ハンス・ゴルニック(英語版))はザームラント半島(英語版)に駐屯、そこでその地域での最後の撤退ポイントであるピラウの港を保持していた。最後の部隊は4月25日、ザームラント攻略作戦(英語版)においてピラウから殲滅された。 この後もドイツ軍はフリッシュ砂州(英語版)(フリッシュ潟を囲む長い砂州)上で終戦まで抵抗し続けた。
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