ソビエト領カリーニングラードへとは? わかりやすく解説

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ソビエト領カリーニングラードへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:03 UTC 版)

カリーニングラード」の記事における「ソビエト領カリーニングラードへ」の解説

独ソ戦中盤までケーニヒスベルク比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線激し戦場となった1944年8月26日から27日夜にかけてイギリス軍爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲郊外爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍189機による空襲では市街地中心部打撃受けた住居工場多く破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街大半ケーニヒスベルク大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城大学などは完全に破壊された。 ソ連赤軍東プロイセン進撃始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民西部ドイツへ脱出始まった1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルク達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民避難民ドイツ軍確保した鉄道港湾使ってバルト海経由ケーニヒスベルクからの脱出続けた要塞化された市街周辺には地雷鉄条網などで三重防衛線が築かれ2月から3月の間ドイツ軍抵抗つづけた。しかし1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍4日間にわたり南北から最後突撃行い残されドイツ軍降伏しケーニヒスベルク陥落したケーニヒスベルクの戦い)。 ドイツ戦後処理が話し合われポツダム会談において、ケーニヒスベルクソ連邦への帰属決定された。すなわち、東プロイセン南北分割され南部ポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部ソ連ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国編入された。戦後ドイツ系市民2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内残留していたが、1947年10月11日スターリン市内残留していたドイツ系市民追放決定し翌年にかけてドイツ系残留市民全員鉄路ソビエト占領区域(後の東ドイツ地域に相当)へと移送された。前後して大量ソ連市民市内移住した1946年7月4日ソ連となったケーニヒスベルク1ヶ月前に死去した先のソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんカリーニングラード市、区域全体カリーニングラード州ロシア語名に改称された。その後ケーニヒスベルク城焼け残った外壁ドイツ時代遺物として完全に破壊され、城の跡地にはソビエトの家建設された。ケーニヒスベルク大聖堂外壁は、歴史的な旧市街廃墟が完全に撤去され空き地中にそのまま残された。 カリーニングラード冷戦時代軍事都市として、州全体外国人立ち入り規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊拠点となり、造船業発達、また古くからの琥珀世界的産出地としても地位確かなものとした。

※この「ソビエト領カリーニングラードへ」の解説は、「カリーニングラード」の解説の一部です。
「ソビエト領カリーニングラードへ」を含む「カリーニングラード」の記事については、「カリーニングラード」の概要を参照ください。

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