ソビエト領カリーニングラードへ
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「カリーニングラード」の記事における「ソビエト領カリーニングラードへ」の解説
独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。1944年8月26日から27日の夜にかけてイギリス軍の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、ケーニヒスベルク大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。 ソ連赤軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には地雷や鉄条網などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した(ケーニヒスベルクの戦い)。 ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入された。戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していたが、1947年10月11日スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路でソビエト占領区域(後の東ドイツ地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去した先のソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。その後、ケーニヒスベルク城の焼け残った外壁はドイツ時代の遺物として完全に破壊され、城の跡地にはソビエトの家が建設された。ケーニヒスベルク大聖堂の外壁は、歴史的な旧市街の廃墟が完全に撤去された空き地の中にそのまま残された。 カリーニングラードは冷戦時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの琥珀の世界的産出地としても地位を確かなものとした。
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