独ソ戦中盤とは? わかりやすく解説

独ソ戦中盤(1942・43年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 20:53 UTC 版)

機甲師団」の記事における「独ソ戦中盤(1942・43年)」の解説

保有戦車のほとんどを失ったソ連は、アメリカ・イギリスから兵器供与を受ける一方戦車生産T-34KV-1中心に絞込みシベリアウラル山脈以東疎開させた工場大量生産始めたまた、ドイツ突撃砲真似てT-34KV-1車体用いた自走砲作成し運用したSU-122SU-152SU-85)。 戦車補充得たソ連軍は、三個戦車旅団一個自動車化狙撃兵旅団構成される戦車軍団編成した。この戦車軍団は、名称こそ師団より上位軍団であるが、規模他国師団よりやや小さいものだった1942年5月半数供与戦車構成した10戦車旅団動員して南部戦線反攻出たCf.第2次ハリコフ攻防戦)が、まだまだ兵員指揮官ドイツ比べ未熟であり、ドイツ軍殲滅され、貴重な戦車戦力を失いスターリングラード攻防戦に至るドイツ南方作戦が始まると、後退戦術をとるしかなかった。 兵員指揮官熟練度上がり始めると、圧倒的な生産力ドイツ軍撃破し始めたスターリングラード包囲戦クルスクの戦い勝利し以後一方的にドイツ軍押し捲った大型トラックが、ソ連でも数万作成されアメリカからも数万供与されたが、ほとんどは膨大な補給物資を必要とする戦車軍団機械化軍団補給用に回され兵員輸送車として使う余裕無かった随伴歩兵戦車自走砲の手すりに掴って移動していた。これらはタンクデサント呼ばれた牽引砲自走砲は共に砲兵部隊運用された。多連装ロケット砲トラック載せ遠距離から大量爆薬ばら撒くカチューシャロケット砲車が極めて有効活用された。トラック荷台簡易なロケット発射台乗せただけの物であるが、一度発射出来る数の多さがその長所であった命中率こそ低いものの、同時点に制圧できる面積は砲に比べて遥かに広くドイツ軍陣地破壊極めて有効で、ドイツ軍恐れられた。

※この「独ソ戦中盤(1942・43年)」の解説は、「機甲師団」の解説の一部です。
「独ソ戦中盤(1942・43年)」を含む「機甲師団」の記事については、「機甲師団」の概要を参照ください。

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