独ソ戦とパルチザンとは? わかりやすく解説

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独ソ戦とパルチザン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:47 UTC 版)

第36SS武装擲弾兵師団」の記事における「独ソ戦とパルチザン」の解説

ドイツ軍ソビエト侵攻始めると戦線後方でのパルチザン活動悩みの種となった1942年3月部隊ベラルーシ中心都市ミンスク近郊到着し警察連隊ミッテ(Mitte)の配下パルチザン掃討行った。この地で部隊各種戦争犯罪犯しつつも、いくつかの戦果をあげ、その結果ディルレヴァンガー5月24日2級鉄十字勲章授与された。同年7月には部隊はクリシェフ(Klicev)近くパルチザン相手陸軍との共同作戦行った(アドラー作戦)。この作戦部隊パルチザン1000人以上の殺害報告しており、一方でディルレヴァンガー本人もこの戦闘負傷し、名誉負傷金勲章(Wound Badge in Gold)を授与される程の激戦であったこのころ部隊人員増加要望もあり、本来の密猟者のみでなく、一般刑務所犯罪者占領地徴募したウクライナ人採用が行なわれた。 その後基本的に前線での戦闘には従事せず、主にポーランドベラルーシにおけるパルチザン掃討任務としていた。 部隊は、隊長であるディルレヴァンガー自身昇進と共に規模拡大して旅団(第2SS突撃旅団ディルレヴァンガー」)になりその後規模拡大していった。 1944年8月ワルシャワ蜂起鎮圧参加旅団ワルシャワ旧市街進軍し多く一般市民性別年齢に関係なく手当たり次第殺害した同年10月スロバキア民衆蜂起鎮圧参加1945年2月に、部隊再編され第36SS武装擲弾兵師団へと改称された。しかし戦闘による兵の消耗激しく実際に旅団規模人数しか有していなかった。(そのため旧名称にちなんだ「ディルレヴァンガー旅団」という別名もある。) 1945年4月28日師団赤軍降伏したが、戦争中所業災いして隊員のほとんどが処刑された。 なお、師団長ディルレヴァンガーは、1945年2月中旬オーデル川付近師団戦闘中負傷し後送されたため、自由フランス軍降伏したが、1945年6月7日捕虜収容所原因不明の死を遂げている。

※この「独ソ戦とパルチザン」の解説は、「第36SS武装擲弾兵師団」の解説の一部です。
「独ソ戦とパルチザン」を含む「第36SS武装擲弾兵師団」の記事については、「第36SS武装擲弾兵師団」の概要を参照ください。

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