独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党とは? わかりやすく解説

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独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 07:13 UTC 版)

ギィ・モケ」の記事における「独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党」の解説

1939年8月23日独ソ不可侵条約締結された。このソ連方向転換は、それまで反ファシズム運動牽引していた左派知識人、特に共産党にとっては大きな打撃となった。すでに共産党離党し1936年ファシズム政党フランス人民党」を結成したジャック・ドリオ同じく離党して新社会主義フランス語版)、後に対独協力転じことになるマルセル・デア(フランス語版)らによるスターリン批判共産党批判に対して共産党幹部は翌8月26日『リュマニテ』紙上で「独ソ不可侵条約は、ナチズム基本的教義全体の突然の放棄である」と弁明したが、ダラディエ内閣8月25日から26日にかけて共産党すべての刊行物発禁処分にし、集会宣伝活動禁止した『リュマニテ』紙はこの後1941年6月ドイツ軍ソ連領内侵攻開始し(独ソ開戦)、事実上独ソ不可侵条約破棄されるまで表向き中立的な立場維持し、たとえば、独ソ不可侵条約締結から1年経った1940年8月28日付の『リュマニテ』紙では「1939年8月23日独ソ不可侵条約東欧における平和の基盤固めた。にもかかわらずドイツを介してソ連戦争仕掛けようとしていた英仏帝国主義者帝国主義戦争開始し同時に過激な反共産主義運動展開し社会主義国家罵倒したのだ。だが、スターリンの平和政策により、ソ連帝国主義戦争加担していない。…ソ連は、搾取された者、抑圧された者たちに自由の道、幸福の道を示しているのだ」と主張していた。 ギィ・モケの父プロスペールもまたソ連政策支持し、党の活動続けたために、1940年2月20日議員解任されサンテ刑務所次いでル・ピュイ=アン=ヴレ刑務所最後にアルジェ郊外メゾン・カレ収容所送られ、ここに5年収監されることになった。これは父の政治思想忠実であった16歳ギィ・モケ衝撃与え同時にまた共産主義への信念をさらに強めることになった

※この「独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党」の解説は、「ギィ・モケ」の解説の一部です。
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