独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党
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「ギィ・モケ」の記事における「独ソ不可侵条約締結後のフランス共産党」の解説
1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結された。このソ連の方向転換は、それまで反ファシズムの運動を牽引していた左派知識人、特に共産党にとっては大きな打撃となった。すでに共産党を離党し、1936年にファシズム政党「フランス人民党」を結成したジャック・ドリオ、同じく離党して新社会主義(フランス語版)、後に対独協力に転じことになるマルセル・デア(フランス語版)らによるスターリン批判、共産党批判に対して、共産党幹部は翌8月26日の『リュマニテ』紙上で「独ソ不可侵条約は、ナチズムの基本的教義全体の突然の放棄である」と弁明したが、ダラディエ内閣は8月25日から26日にかけて共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、集会や宣伝活動も禁止した。『リュマニテ』紙はこの後1941年6月にドイツ軍がソ連領内に侵攻を開始し(独ソ開戦)、事実上、独ソ不可侵条約が破棄されるまで表向きは中立的な立場を維持し、たとえば、独ソ不可侵条約締結から1年経った1940年8月28日付の『リュマニテ』紙では「1939年8月23日の独ソ不可侵条約は東欧における平和の基盤を固めた。にもかかわらず、ドイツを介してソ連に戦争を仕掛けようとしていた英仏の帝国主義者が帝国主義戦争を開始し、同時に過激な反共産主義運動を展開し、社会主義国家を罵倒したのだ。だが、スターリンの平和政策により、ソ連は帝国主義戦争に加担していない。…ソ連は、搾取された者、抑圧された者たちに自由の道、幸福の道を示しているのだ」と主張していた。 ギィ・モケの父プロスペールもまたソ連の政策を支持し、党の活動を続けたために、1940年2月20日に議員を解任され、サンテ刑務所、次いでル・ピュイ=アン=ヴレの刑務所、最後にアルジェ郊外のメゾン・カレ収容所に送られ、ここに5年間収監されることになった。これは父の政治思想に忠実であった16歳のギィ・モケに衝撃を与え、同時にまた共産主義への信念をさらに強めることになった。
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