ダラディエ内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 13:39 UTC 版)
「スタヴィスキー事件」の記事における「ダラディエ内閣」の解説
1月30日、ショータンの後任としてエドゥアール・ダラディエを首班とする内閣が成立した。新首相に就任したダラディエは2月3日、左派勢力から「真相の隠蔽を図っているのではないか」との疑念を持たれていた警視総監シアップを解任し、当時フランスの保護領であったモロッコへ左遷した。しかし、この措置は右派閣僚の反発を招き、内閣は機能不全に陥った。国粋主義団体もダラディエを追及し、2月6日の晩、大衆を巻き込んだ大規模な反政府デモを起こした。この日は、ダラディエ内閣の信任投票が行われることになっていたが、上述のアクション・フランセーズ、クロア・ド・フーをはじめ、フランス連帯団 (Solidarité Française) 、フランシスム (Francisme) 、愛国青年同盟 (Jeunesses Patriotes) などの有力団体は、国会周辺に集まり声高に政府批判を展開。その一部は議場にまで雪崩れ込み、大混乱を起こした(1934年2月6日の危機)。この暴動で16名の死者と2,300余名の負傷者(人数は資料によって若干異なる)を出したため、ダラディエ内閣は議会からの信任を得たにも拘らず、責任を取って2月7日に総辞職した。
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