ジャック・ドクール
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「レットル・フランセーズ」の記事における「ジャック・ドクール」の解説
ジャック・ドクールはリセ・ロラン(現リセ・ジャック=ドクール(フランス語版))のドイツ語の教員であり、1936年にフランス共産党に入党し、国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部「革命作家芸術家協会」の機関誌『コミューン(フランス語版)』(1933年7月創刊)の編集事務局を務めていた同じ共産党員の作家ルイ・アラゴンに協力し、1938年から彼とともに編集委員を務めていた。 1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、8月25日、ダラディエ内閣は共産党の第一機関紙『リュマニテ』、同じくアラゴンが編集長を務めていた『ス・ソワール(フランス語版) (今夜)』紙、『コミューン』誌など、共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した。この結果、『リュマニテ』紙だけが以後、パリ解放の1944年まで地下出版されることになった。 ドイツ軍は言論・思想の自由を徹底的に弾圧し、出版社労働組合はこれを受けて1940年9月28日に占領当局との間で検閲協定を締結した。1940年11月11日、1918年の同月同日に締結された(第一次世界大戦における)ドイツと連合国の休戦協定を記念してシャンゼリゼ大通りから凱旋門にかけて高校生、大学生、教員らが大規模なデモを行い、ゲシュタポに逮捕された(1940年11月11日のデモ(フランス語版))。ドクールはこうした弾圧に対する知識人の抵抗運動の一環として1940年11月に哲学者ジョルジュ・ポリツェル、物理学者ジャック・ソロモン(フランス語版)とともに雑誌『自由大学(フランス語版)(Université libre)』、次いで1941年に『自由思想(La Pensée libre)』を創刊し、「フランスは決して奴隷国家にならない」、あるいは(ドイツの作家ゲーテの言葉を掲げて)「もっと光を」と訴えた。さらに、1941年に共産党がレジスタンス・グループ「国民戦線(フランス語版)」を結成すると、ドクールはこの一派として全国作家戦線を結成(まもなく全国作家委員会(フランス語版) (CNE) に改称)。ジャン・ブランザ(フランス語版)、シャルル・ヴィルドラック、ジャン・ゲーノ、フランソワ・モーリアックらが参加した。
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