『自由大学』
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「ジョルジュ・ポリツェル」の記事における「『自由大学』」の解説
1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、8月25日、ダラディエ内閣は共産党の第一機関紙『リュマニテ』、革命作家芸術家協会の『コミューン』誌、アラゴンが編集長を務めていた『ス・ソワール(フランス語版)(今夜)』紙など、共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した。この結果、『リュマニテ』紙だけが以後、パリ解放の1944年まで地下出版されることになったが、後述のように共産党主導の対独レジスタンス運動の一環として多くの地下新聞・雑誌が印刷・配布された。 同年9月にドイツ、次いでソ連がポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発。ポリツェルは動員され、陸軍士官学校の経理部に伍長として配属された。独仏休戦協定締結後に復員すると、ソロモンとともに、啓蒙思想・理性主義の擁護し、蒙昧主義と闘うために、大学教員・知識人共産党員の対独レジスタンス運動を結成し、ドイツ語教師のジャック・ドクール(フランス語版)が参加した。3人はまずこの運動の一環として『自由大学(フランス語版)(L'Université libre)』誌を地下出版した。当初は1940年10月30日に創刊号を刊行する予定であったが、同日、1934年に結成された反ファシズム知識人監視委員会副委員長であったランジュヴァンがゲシュタポに逮捕され、サンテ刑務所に拘留された。11月8日、コレージュ・ド・フランス前で共産主義の学生を中心に抗議運動が起こり、約50人が参加した。加えて、11月11日に、1918年の同月同日に締結された(第一次世界大戦における)ドイツと連合国の休戦協定を記念してシャンゼリゼ大通りから凱旋門にかけて高校生、大学生、教員らが大規模なデモを行い、ゲシュタポに逮捕され、この結果、5週間にわたってパリのすべての高等教育機関における講義が禁止された(1940年11月11日のデモ(フランス語版))。1940年11月付で刊行された『自由大学』創刊号ではこうした一連の事件について報告し、ナチス・ドイツとヴィシー政権の反ユダヤ主義(ユダヤ人の教員を排除するなど)を糾弾した。 『自由大学』誌はソロモンが編集長を務め、ポリツェルが地下活動を組織した共産党幹部との連絡を担当。ジョルジュ・デュバック(Georges Dudach)が妻シャルロット・デルボ(フランス語版)とともに事務局を務めた。ポリツェルの妻マイのほか、ランジュヴァンの娘でソロモンの妻エレーヌ・ソロモン=ランジュヴァン(フランス語版)、ダニエル・カサノヴァ(フランス語版)と彼女が結成したフランス女性連合(Union des jeunes filles de France)の会員のクロディーヌ・ショマ(フランス語版)(共産党の政治家ヴィクトル・ミショー(フランス語版)の妻)やマリー=クロード・ヴァイヤン=クーチュリエ(フランス語版)(ポール・ヴァイヤン=クーチュリエの妻)らも参加した。『自由大学』紙は1940年11月から1941年12月までの間に41号刊行され、事実上、大学教員によるレジスタンス運動の機関誌となった。
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