『自由海論』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 10:01 UTC 版)
「フーゴー・グローティウス」の記事における「『自由海論』」の解説
1603年、オランダの船員・探検家でもあるヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(英語版)がポルトガル船サンタ・カタリーナ号を拿捕した時代とは、スペイン・ポルトガル同君連合がオランダと交戦していた時代(八十年戦争)であった。ヘームスケルクはオランダ東インド会社の子会社であるアムステルダム独立会社の社員として働いていたが、彼自身には、オランダ政府や東インド会社から権力を行使する権限を付与していたわけではなかったが、オランダ東インド会社の株主は、ヘームスケルクがもたらした富を受け取ることを望んでいた。とはいえ、オランダ国内ではヘームスケルクにおける拿捕の妥当性が問われていただけではなく、倫理面からもオランダ東インド会社の一部の株主から拿捕による物品の獲得を拒否する動きもあった。もちろん、ポルトガルも貨物の返還を望んでいた。オランダ東インド会社の代表は、グローティウスにこの拿捕における論証を依頼することとなった。 1604年から1605年にかけてのグローティウスの活動は、『De Indis』と題された書簡にまとめられた。グローティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求めようとした。 1609年、グローティウスは、『自由海論』(原題:Mare Liberum)を著した。グローティウスはこの本により、海は国際的な領域であり、全ての国家は、海上で展開される貿易のために自由に使うことができると主張した。 当時のイギリスは、貿易においてオランダと競合関係にあったため、グローティウスの主張に真っ向から反対した。スコットランド人の法学者であるウィリアム・ウエルウォッド(英語版)が英語で初めて、海事法について著した人物であり、1613年にはグローティウスに対抗する形で、『Mare Liberum in An Abridgement of All Sea-Lawes』を執筆した。グローティウスはそれに反論する形で1615年、Defensio capitis quinti Maris Liberi oppugnati a Gulielmo Welwodoを著した。1635年、ジョン・セルデンは、『封鎖海論』(原題:Mare clausum)において、海は原則として、陸地の領域と同じ適用を受けるものと主張した。 海事法をめぐる論議が成熟するにつれて、海洋国家は海事法の整備を推進することとなった。オランダ人の法学者であるコルネリウス・ファン・バインケルスフーク(Cornelius van Bynkershoek)が自著『海洋主権論』(原題:De dominio maris)(1702年)において、陸地を護るために大砲が届く範囲内の海の支配権(領海)はその沿岸の国が保有すると主張した。この主張は各国で支持され、領海は3マイルとするとされた。 この論争は最終的には、経済論争にまで発展した。たとえ、モルッカ諸島でナツメグとクローブを独占していたとしても、オランダは、自由貿易を主張していた一方で、イギリスは、1651年に航海条例を制定することでイギリスの港湾にイギリス船籍以外の入港を禁じた。航海条例の制定によって、第一次英蘭戦争が勃発した。
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