『自由思想』
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「ジョルジュ・ポリツェル」の記事における「『自由思想』」の解説
1941年2月には再びドクール、ソロモンとともに『自由思想(La Pensée libre)』を創刊した。表紙にはゲーテの言葉「もっと光を(Mehr Licht)」を掲げた。啓蒙主義のフランス語 « Lumières(光)» への言及であり、ポリツェルは創刊号にラモー(Rameau)の偽名で「20世紀の蒙昧主義」と題する記事を掲載した。これはローゼンベルクがフランスの下院で行った「1789年(フランス革命)の理念に決着をつける(règlement de comptes avec les idées de 1789)」と題する講演に対する反論であり、同年末に小冊子『20世紀の革命と反革命 - ローゼンベルク氏の「金と血」への反論』として地下出版された。 1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻したことで(独ソ戦)、独ソ不可侵条約が事実上破棄されると、共産党は5月に結成した対独レジスタンス・グループ「国民戦線(フランス語版)」を中心に本格的な抵抗運動を展開した。ポリツェルは『自由思想』第2号の刊行にあたって、南仏の自由地域(ドイツ軍非占領地域)にいたアラゴンの協力を求めた。知識人としても共産党員としても重要な役割を担っていた彼の協力は、運動の組織化に不可欠であったからである。一方、ドクールはさらに(大戦勃発まで『新フランス評論』の編集長であった)ジャン・ポーランとも雑誌の地下出版を予定していた(ドクールの処刑後に『レットル・フランセーズ』誌として刊行)。『自由思想』第2号は1942年2月2日に刊行された。表紙には「フランス文学(レットル・フランセーズ)が攻撃を受けた。フランス文学を守ろう - 占領地域の作家の声明」と書かれ、巻頭には「自由のための闘い - フランス知識人が国民戦線を結成」と題する宣言文が掲載された。 1942年2月15日、ポリツェルは妻マイとともにパリ7区グルネル通り(フランス語版)の自宅で、主に共産党員の追跡・逮捕を目的とするパリ警視庁の特別班(Brigades spéciales)に逮捕された。偽名を使い、危険なため外出もできなかったポリツェルのもとに食料を届けに来たダニエル・カサノヴァも同時に逮捕された。特別班はしばらく前から共産党員の追跡を行い、連絡網を把握していたため、ソロモン、ドクールほか多くの党員が数日のうちに一斉に逮捕された。 ポリツェルは1942年3月20日にドイツ軍に引き渡され、5月23日に活動を共にしたソロモン、デュバック、ジャン=クロード・バウアー(Jean-Claude Bauer)、マルセル・アングロ(Marcel Engros)とともにモン・ヴァレリアン要塞(フランス語版)で銃殺刑に処された。
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