航海条例の制定
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クロムウェルが実権を握っていた時期にこの法案が議会を通過したため「クロムウェル航海法」とも呼ばれるこの法案には、実際はクロムウェルは関わっていない。1651年10月に議会を通過したとき、クロムウェルは国王軍討伐の遠征の途上にあった。法案はピューリタン革命で議会に残ったランプ議会が通過させたが、この発案者や推進者が誰なのかは分かっていない。クロムウェルは、プロテスタント勢力が相争うことになると思われるこの法案に批判的であり、クロムウェル率いる軍と議会の溝は深まっていった。[要出典] 1651年、クロムウェル指揮下の議会で、最初の航海条例の法案が可決された。この法案は、イングランドの植民地貿易の利権を守るため、そして、急成長するオランダの海洋貿易から、イングランドの産業を守る目的があった。その条件としては イングランド及び植民地に外国船を入れない イングランド人(植民地の住民を含む)乗組員が、最低半数を占めること イングランドの船であること である。また、イングランドは、居住地でなく国籍を重視したため、イングランド植民地の住民は、植民地間の貿易をおこなうことができた。また、イングランド領アジアやアフリカの物品は、ブリテン諸島やアメリカの植民地のみにしか送れなかった。逆に、西インド諸島やアメリカの植民地からは、外国船で諸外国に送ることができ、ヨーロッパ諸国の輸出品は、イングランド船で運送するか、産出国の船で運ぶかのどちらかだった。 この条例は特にオランダに対象を絞っていた。元々同じプロテスタントの共和国(当時)として、友好関係にあったオランダとの関係が、三十年戦争でオランダがスペインの所領と市場の多くをものにしたことで変化、イングランドと張り合うようになった。オランダはヨーロッパの各国間での貿易の大部分と、イングランドの沿岸貿易の多くをも握っていた。 条例によりオランダは、不可欠であるイングランドとの貿易から締め出された。オランダの経済は競争力があったが、イングランドと互いを捕捉し合う関係にはなく、条例施行後も両国間での取引はなされていた。しかしこの条例によって、オランダの商業が依存していた中継貿易は無力化され、オランダの船は、オランダの輸出品(主に乳製品)をイングランドとその植民地に送るだけになった。しかも、この貿易での収益は、オランダの貿易収益全体ではごくわずかであった。 航海条例はしばしば第一次英蘭戦争の主な原因と言われるが、条例そのものは、イングランドの大々的な外交方針の一部でしかなかった。その方針に基づいて、オリバー・シンジョンとウォルター・ストリックランドが、イングランドとオランダの同盟を交渉したものの失敗に終わり、シンジョンは交渉で恥をかかされたことへの仕返しとして、この条例を推進した。 1652年、両国は交戦状態に踏み切った。1653年にイングランド海軍はポートランドの戦い、ガバードの戦い、そしてスケフェニンヘンの戦いの勝利と、自国領海の戦いで圧倒的な強さを見せた。元々は、1651年の条例の限定条項を無視したオランダ船への攻撃が発端だったが、バルト海や地中海といった、戦場をはるか離れた場所では、オランダはイングランドの貿易を停止し、独占権を握っていた。英蘭両国は、互いの首を真綿で締めるようなことをやっていた。最終的に、オランダは条例を認めざるを得なくなった。 1658年にクロムウェルが没し、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿に就任したが、軍との軋轢から失脚し、これが王党派の勢いに火をつけて清教徒革命の終焉と王政復古への道を早めた。航海条例は、王政復古後も続いたが、18世紀以後は様々な制約が加えられた。
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