18世紀以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 04:06 UTC 版)
戦略上の要地に位置するグアスタッラは、同時代で最も重要な要塞都市の一つであった。要塞の軍事的な役割は、軍事権力の象徴でもあり、またその失墜の予兆でもあった。1689年にはスペイン軍による攻撃を受け、要塞の要素である城壁を取り壊されてもいる。 ゴンザーガ家最後のグアスタッラ公である8代目のジュゼッペ・マリーア (it:Giuseppe Maria Gonzaga) は、1729年に兄の死により公爵となる。ポーランド継承戦争(1733年 - 1738年)中の1734年には、フランス・サルデーニャ連合軍とオーストリア軍との間でグアスタッラの戦いが行われた。グアスタッラはフランスの占領下に置かれる。ジュゼッペ・マリーアは1738年に公爵に復帰するが、1746年に後継者を残さず没した。当時はオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)中であり、グアスタッラはオーストリア軍が占領した。 1748年のアーヘンの和約により、パルマ公のボルボーネ家(ブルボン=パルマ家)がグアスタッラ公を兼ね、パルマ公国の一部となった(パルマ・ピアチェンツァ・グアスタッラ公国)。 ナポレオン戦争中の1806年、カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼ(ナポレオンの妹ポーリーヌの夫)がグアスタッラ公となった。 ナポレオン戦争後、ナポレオン1世の皇后であったマリア・ルイーザがパルマ女公となると、グアスタッラ公爵領は再びパルマ公国の一部となった。1847年にマリア・ルイーザが死去すると、パルマ公の称号と領土はブルボン=パルマ家の手に戻るが、グアスタッラをはじめとする飛び地(グアスタッラ、ルッザーラ、レッジョーロ)はモデナ公国に割譲された。イタリア統一運動の中で1859年にモデナ公国は解体され、1860年にサルデーニャ王国に編入された。1861年にグアスタッラはイタリア王国の一部となった。
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