18世紀アメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 09:16 UTC 版)
タール羽の習慣は、アメリカ大陸に伝わり、18世紀半ばによく用いられた。1760年代を通して、タウンゼンド諸法と、その執行者に対する民衆の抗議手段として行われることが増加した。1770年から1773年にかけて、ほとんど実行されない時期もあったが、1773年5月の茶法をきっかけに再び見られるようになった。 1765年の印紙法に端を発する騒動の際には、ロイヤリストの裕福な地主であったアーチボルド・マッコール(英語版)はバージニア州ウエストモアランドとエセックス郡で、パトリオットの暴徒らから標的にされた。マッコールは印紙法の賛同者であり、イギリス本国が印紙代(税金)を徴収することを肯定した。このために、同法に反対する暴徒らは、バージニア州タッパハノックにあった彼の自宅を襲撃して彼を捕らえ、タール羽の刑に処した。1766年、ウィリアム・スミス船長は町長を含む暴徒らによってタール羽の刑に処された上、バージニア州ノーフォークの港に投げ入れられた。彼は体力が尽きるも船に救われ、一命は取り留めた。スミスがこのような私刑を受けたのは、密輸業者をイギリスの税関に密告していたと疑われていたためであり、これは以降10年間のタール羽の刑の犠牲者の多くと同様の理由であった。 1768年にマサチューセッツ州セイラムにおいて、暴徒が税関の下級職員をタール羽の刑に処す事件が起こった。同様に1769年10月にはボストンにおいても税関の船員が暴徒に襲われ、こうした襲撃は1774年まで複数回に渡って発生した。税関長ジョン・マルコム(英語版)は2度にわたってタール羽の刑の被害を受け、1度目は1773年11月にニューハンプシャー州ポーツマスで船員たちに、2度目はより激しく1774年1月にボストンで同様の目に遭った。マルコムは全裸にされた上で、鞭を打たれたり、殴られ、タール羽の刑に処されるということが数時間にわたって続いた。その後、自由の木(英語版)の元に連行されると、吐くまでお茶を飲むことを強要された。 1775年2月、コネティカット州イースト・ハダムのロイヤリストであったアブナー・ベビー博士は、豚小屋に連れて行かれるとタール羽の刑に処された。さらにベビーは、豚の糞を塗られた上に、目にも入れられ、極めつけに飲み込まされた。これは地元の安全委員会が親英感情を表明したと見なされたことに端を発して懲罰として行われた。 1775年8月、ジョージア州オーガスタ北東部で、特に暴力的なタール羽の刑が行われた。ロイヤリストの地主トマス・ブラウンは、「自由の息子達」のメンバーらによって、自身の所有地に連れて行かれた。ブラウンは抵抗したが、ライフル銃で頭蓋骨が骨折するほど殴られ、身ぐるみを剥がされると木に縛り付けられた。そして、火をつけられる前に熱いピッチを掛けられ、切り株にかかっていた彼の2本の足の指が火傷を負った。その後、羽毛が付けられると、彼はナイフで頭皮を剥がされた。 一般にタール羽の刑は、アメリカ独立運動におけるパトリオットの行動と見られていた。例外的なものとしては、1775年3月にマサチューセッツ州ビレリカのトマス・ディットソンは、第47歩兵連隊の兵士からマスケット銃を買おうとして、同連隊の士官と多数の兵士からタール羽の刑を受けた。ディトソンはタールと羽毛を付けられた後、ファイフと太鼓で『ヤンキードゥードゥル』が演奏される中で「American Liberty: A Speciment of Democracy(アメリカの自由:民主主義の見本)」と書かれたプラカードを持たされた。 1791年のウィスキー税反乱でも、農民たちが連邦の徴税官にタール羽の刑を行う例が見られた。9月11日以降、ペンシルバニア西部の農民たちは、連邦政府による同地のウィスキー蒸留所への課税に対して暴動を起こした。彼らによる最初の犠牲者は、最初に任官された徴税官ロバート・ジョンソンだったと言われている。ワシントン郡にて変装したギャングに襲われ、タールと羽毛をつけられた。さらに、その襲撃者たちに裁判所の令状を出させようとした他の役人たちも襲われ、鞭打ちやタール羽の刑が行われた。これらを含めた暴力的な襲撃のため、1791年から1792年にかけての徴税実績はゼロとなった。襲撃者たちはアメリカ独立運動における抗議活動を模範としていた。
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