18世紀以降の受難曲
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18世紀には、受難物語を新たに詩作し、当世風の音楽を付した「受難オラトリオ」が流行し、世紀の半ばを過ぎると、福音書に基づく受難曲の作曲は少なくなる。多感主義や疾風怒濤運動の影響が認められるカール・ハインリヒ・グラウン(1704年頃-1759年)やヨハン・ハインリヒ・ロレ(1716年-1785年)の感傷的な作品(たとえば前者による《イエスの死 Der Tod Jesu》、《ここへ来て見よ Kommt her und Schaut》など)は、こうした18世紀における受難オラトリオの典型とされる。これに対して、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714年-1788年)、ゴットフリート・アウグスト・ホミリウス(1714年-1785年)等によって福音書に基づく受難曲も作曲され続けたが、オラトリオの要素が大幅に導入されたり、パロディやパスティッチョによる等、多様な構成がとられている。 一方、カトリック圏内のウィーンでも、すでに17世紀以来、セポルクロと呼ばれる演技を伴う一種の受難オラトリオが宮廷礼拝堂で上演されていたが、18世紀には、オペラの台本作家として人気を集めたピエトロ・メタスタージオの『イエス・キリストの受難』が、多くの音楽家によってオラトリオとして作曲されている。 19世紀に入ってからも、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年-1827年)の『オリーブ山上のキリスト』等、イエスの受難を主題とする音楽作品の多くは演奏会用のオラトリオであった。しかしながら、19世紀後半には、教会音楽の改革を目的としたチェチリア運動を契機として、歴史的教会音楽に対する関心が高まり、ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(1843年-1900年)、ロレンツォ・ペロージ(1872年-1956年)等によって、典礼用の受難曲が再び作曲されるようになる。現代音楽においても、宗教音楽劇としての構成が注目され、クシシュトフ・ペンデレツキ(1933年-2020年)、アルヴォ・ペルト(1935年-)等、多くの音楽家によって、さまざまな形態の受難曲が作曲されている。
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