18世紀前半:ピョートル大帝による教会統制策
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「18世紀前半:ピョートル大帝による教会統制策」の解説
ピョートル1世(在位1682年 - 1725年)以降、ロマノフ朝の皇帝はロシア正教会を国教として保護する一方でさらに厳重な統制下に置くようになる。ピョートル1世は西欧への窓口および首都として1703年にサンクトペテルブルクを建設したことにもみられるようにロシアの西欧化を目指していたが、それは教会も例外ではなかった。 1701年、ピョートル1世は修道院省を設置して教会領を統括。不穏な空気が流れることを察したツァーリは修道士の執筆を禁止した。同年、教区聖職者に対して新たな義務を課した。教区の警護と消防、刑務所の見張り、助産婦の監視(捨て子の防止のため)等であった。1708年には痛悔(告解)の内容に反国家的な言動があった場合、司祭は国家に報告するよう秘密の勅令で義務付けられた。違反した司祭には罰金が科せられた。また、多くの修道院領が国庫に没収された。 総主教庁にも例外なくツァーリの改革の手が及んだ。1700年のアドリアン総主教の永眠後には後任の総主教を選出することを許されなかった。1721年にはモスクワ総主教庁は正式に廃止され、英国国教会とドイツのプロテスタント教会の制度に倣い、皇帝権力のコントロールの下に置かれた聖務会院が設置された。その総裁には俗人が任命された。総裁制度は1726年から1741年まで一時的に中断したものの、エリザヴェータ女帝が復活させ、以降1917年の総主教制の復活まで、ロシア正教会は総主教座が空位のままとなり、時には軍人・無神論者が就任する総裁の管轄下に置かれることとなった。 こうした痛悔機密の世俗国家に対する通報義務、および聖務会院制度は、正教会の教会法に違反するものであった。 1721年にはウクライナ人でキエフ出身のF.プロコポーヴィチが作成した草案に基づいて『宗務規定』が定められ、ツァーリの首長権の確認・教会に対する国家の官吏に近い役割の義務付け・修道士の統制・古儀式派への抑圧などが規定された。 また、ピョートル1世は好んでウクライナ人を登用した。1700年から1762年までの間の127人の高位聖職者のうち70人がウクライナ人かベラルーシ人で、ロシア人は47人に過ぎず、あとはギリシャ人、ルーマニア人、セルビア人などであった。ウクライナの影響が強まることは必然的に、カトリックの影響の強いキエフ・モギラ・アカデミーにみられるような同地からの西欧的な影響が強まることに帰結し、ロシア正教会の西欧化・ラテン語偏重が著しく進んだとされる。 なおこの時代、古儀式派からはピョートル1世は「アンチキリスト」と忌み嫌われ、ツァーリによる弾圧と終末論的認識の広まりとが相俟って古儀式派の集団焼身自殺が多発した。一説には17世紀末までの焼身自殺者数は9千人、以後の歴史も含めれば総数2万人にも及ぶという。 世俗権力による総主教制の廃止と教会の統制、および司祭に反国家的言動についての通報の義務付けが行われたことは、著しく正教会の教会法に反するものであり、正教会の伝統を捻じ曲げたとされる西欧化と合わせ、後代の正教会からこの時代のロマノフ朝の施策は激しく論難されるものとなっている。ピョートル1世についての評価は正教会からは著しく低い。 また、ピョートル1世により教会行政の整備は成ったが、ピョートルが在任中に出した勅令・宣言・協定・規約・指令・認可状等の数は実に約3000にも及んだ。こうした朝令暮改は、国民国家の遵法精神・法治の精神が育つことを妨げるものであったともされる。したがってこうした教会機構の整備とそれに関する法令の数々は教会法違反であるにとどまらず、教会の安定にすら繋がらないものであった。 この時代、精神的救済を求める人々は、各地の長老達に教えを請うようになっていった。
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