18世紀半ばの戦術的停滞
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「帆船時代の海戦戦術」の記事における「18世紀半ばの戦術的停滞」の解説
18世紀の英仏間の戦いでは、戦力が等しいかそれに近い場合には決着が付かない傾向にあった。フランスはこの世紀を通じてイギリスよりも軍艦の数で劣っていたため、最小のコストで戦い、激戦を避けて損耗を減らすことに務めた。よってイギリス海軍の数的優位も揺らぐことはなかった。フランス艦は逃走しやすいように風下で交戦することを好んだ。彼らはイギリス軍に風上を取らせておき、それが並走しているときも、風を背に攻撃を仕掛けてくるときも、前進をつづけた。攻撃側は敵戦列に対して風を背に垂直に襲いかかるのでなく、斜めの、あるいは湾曲した線に沿って仕掛けることとなった。攻撃側は「艦首と艦尾の連なり("a bow and quarter line")」、すなわち先頭艦の艦尾に次艦の艦首がつづき・・・という一本の線の中に呑み込まれてしまう。この陣形は、帆走力にばらつきのある多数の艦からなる場合、維持困難なものであった。 敵の戦列の中央を襲おうと舵を切って真っ先に戦闘に突入した艦が、帆装を損傷して操舵不能になるということがしばしば起こった。同じ陣形が維持できた場合でも、今度は損傷を受けた艦の速度に他の艦が制約されたり、また敵艦が風下に逃亡したりした。また、円材に損傷を受けやすいのは常に風上から攻撃を仕掛ける方の艦であり、それは風下の艦が慎重に狙いをつけていない場合でも同じだった。風下の艦は風で敵と反対側に傾くので、砲弾が常に高く飛ぶ傾向があった。また、攻撃側が風上にいる限り、風下の艦は常に素早く離脱することができた。 18世紀の戦争ではほぼ等しい戦力の艦隊同士では戦術的に決着の付かないものが続出した。マラガの海戦(1704年)、リューゲン島の戦い(1715年)、トゥーロンの海戦(1744年)、ミノルカ島の海戦(1756年)、ナーガパッティナムの海戦(1758年)、カッダロールの海戦(1758年)、ポンディシェリーの海戦(1759年)、ウェサン島の海戦(1778年)、ドッガー・バンク海戦(1781年)、チェサピーク湾の海戦(1781年)、フーグランドの海戦(1788年)、オーランドの海戦(1789年)などである。これらの中には、イギリスが勝たねばならなかったチェサピーク湾の海戦のように、戦略的に重要な結果をもたらしたものもいくつかあるが、戦術的にはすべて未決着である。提督達の多くが、力の均衡した艦隊間の戦いでは決着が付かないと信じ始めた。18世紀の海戦で戦術的に決着が付いたのはすべて、一方の戦力が明らかに他方を上回っていた追撃戦である。例えば1747年の第一次、第二次のフィニステレ岬の海戦、1759年のラゴスの海戦とキブロン湾の海戦、1780年のサン・ビセンテ岬の月光の海戦などである。 イギリス海軍の変革は、1744年のトゥーロンの海戦後の2人の提督による見苦しい論争で遅れを来した。トゥーロンの海戦で、トマス・マシューズ提督が指揮するイギリス艦隊はフランス艦隊に追いついておらず、並走する戦列を形成できていなかったが、取り逃がすことを恐れたマシューズはフランス戦列の後部を総攻撃するように命令を発した。しかし、その意図を伝えうる信号が存在しなかったため、距離をあけて後衛戦隊を指揮していた次席提督のレストック(彼はマシューズを平素から敵視していた)は、それを楯にとってその位置にとどまった。 議会におけるレストックの友人らによって提起された一連の軍法会議において、マシューズとそれに従った艦長たちは罰せられ、レストックは無罪となった。その後の戦闘では、提督たちは海軍交戦規定から逸脱しようとするたびにマシューズの運命を思い出すこととなった。
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