18世紀後半から米英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:05 UTC 版)
「ガバナーズ島」の記事における「18世紀後半から米英戦争」の解説
アメリカ独立を経て、ガバナーズ島こと総督の島(Governor's Island)はクラウン・エステートからニューヨーク州に移された。 島には軍事的用途が見られず、代わりにホテルや競馬場として使用された。大部分が土でできていた要塞の質は劣化し始めた。1784年3月29日、米国議会の法律によってこの島の名称がアポストロフィ無しの「ガバナーズ島(Governors Island)」に変更された。1790年にガバナーズ島は「軍事目的で必要とされない限りは[中略]教育振興目的で」ニューヨーク州評議員会 (New York State Board of Regents) に移譲された。この時期における島の用途については他にほとんど知られていない。 1790年代半ばまでに、軍事的緊張の高まりがニューヨーク港要塞化への関心を再燃させ、米国議会の委員会はアメリカの主要都市中心部を守るため第一次要塞化ができうる場所の地図を作成した。防御が構築された最初の地点の1つがガバナーズ島だった。そのため、評議委員会との合意は1794年に無効になり、1794年と1795年にはガバナーズ島の防御構築に約250,000ドルの連邦予算が割り当てられた。 ジェイ砦 (Fort Jay) は、以前に独立戦争の土塁があった地点で1794年に建設が始まった。ジェイ砦の低い高台は脆くて占領されやすいとの懸念もあったが、作業は進行した。ジェイ砦は4つの堡塁を擁する四角形の砦で、土塁と木材で作られていたが戦争の脅威が去るや間もなく劣化していき、1805年までに酷く崩壊してしまった。1800年2月15日にこの島の所有権が連邦政府に移譲された。 1800年代初頭にニューヨーク港の防衛を担当したジョナサン・ウィリアムズ中佐は、第二次要塞システムの一部として同港の周辺に幾つかの新たな牙城を提案した。第一次防衛システムとは違って劣化を防ぐため新たな砦は石積みで作られ、火力の増強および武器の改善も含まれていた。1806年から1809年にかけてジェイ砦は現在の星形に再建され、ほどなくコロンバス砦と改名された。これに次ぐ主要な牙城のウィリアムズ城 (Castle Williams) は、1807年から1811年にかけて島の北西隅からコロンバス砦の北へと伸びる岩礁に建設された円形砲台であった。3番目の牙城となる南側砲台または半月砲台(現:建物298)は、1812年に島の東海岸にあたるコロンバス砦の南側に建設された。1812年の米英戦争はこれらの防衛システム完成直後に勃発したが、最後までこれらの要塞が戦闘に遭遇することはなかった。
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