その後の戦闘
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「ヘンダーソン基地艦砲射撃」の記事における「その後の戦闘」の解説
詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 10月13日21時、第八艦隊長官の三川中将は重巡鳥海とサボ島沖海戦から生還した重巡衣笠、駆逐艦天霧、望月を率いてショートランド泊地から出撃、輸送船団を護衛しつつガダルカナル島へ接近した。14日深夜、鳥海、衣笠は飛行場に対し20cm砲弾752発を発射した。 10月14日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官指揮下のもと、軽巡3隻(川内、由良、龍田)と駆逐艦4隻(朝雲、白雪、暁、雷)がそれぞれガダルカナル島への揚陸に成功した。翌日、秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明等の護衛による輸送船団6隻は、ヘンダーソン飛行場から飛び立ったアメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)が座礁するもかろうじて輸送任務に成功したが、日中のアメリカ軍の艦砲射撃やヘンダーソン飛行場からのアメリカ軍機の空襲により、揚陸地点に集積されていた物資は大部分を焼き払われた。 10月15日夜、第五戦隊の重巡洋艦妙高、摩耶、第二水雷戦隊(軽巡五十鈴、第三十一駆逐隊《高波、巻波、長波》、第二十四駆逐隊《海風、江風、涼風》)がガダルカナル島ヘンダーソン基地への艦砲射撃を実施し、妙高は20cm主砲463発、摩耶は450発を発射した。 10月16日、連合艦隊は水上機母艦日進、千歳、千代田による輸送を止め、軽巡洋艦および駆逐艦での輸送を下令、日本陸軍ガ島総攻撃前の最後の輸送作戦とした。これを受けて軽巡洋艦戦隊(川内、由良、龍田)と第四水雷戦隊(旗艦秋月)、同水雷戦隊第1小隊(第九駆逐隊《朝雲》、第十一駆逐隊《白雪》、第六駆逐隊《暁、雷》)、第2小隊(第二駆逐隊《村雨、夕立、春雨、五月雨》)、第3小隊(第十九駆逐隊《浦波、敷波、綾波》)、第4小隊(第二十七駆逐隊《時雨、白露、有明》)による輸送作戦(陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資)が行われることになった。17日午前2時-4時に各隊は漸次ショートランド泊地を出撃すると、20時40分から22時にかけてガダルカナル島に到着し軽巡戦隊はエスペランス岬で、水雷戦隊はタサファロンガ岬でそれぞれ揚陸に成功した。また、サボ島沖海戦で沈没した駆逐艦吹雪の乗組員8名を含む231名を救助した。各隊が揚陸を行う間、村雨と時雨は揚陸作戦中の哨戒を担当したのちヘンダーソン飛行場に、時雨100発、村雨60発を艦砲射撃した。帰途、軽巡由良がアメリカ潜水艦の雷撃により魚雷1本が命中するも不発で、増援部隊はそれ以上の被害を出すことなく10月18日9時30分にショートランド泊地に帰着した。
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その後の戦闘
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アイタペの戦い後、アメリカ軍と交代したオーストラリア軍は、オーストラリア第6師団を主力として追撃戦を行った。第6師団隷下の第19旅団はジャングル戦闘の専門訓練を受けていた。日本軍に大規模な反撃を行う戦力は残っておらず、アレキサンダー山脈に後退しつつ、小部隊による夜襲を反復して応戦した。 安達中将は飢餓による全滅を避けるためウェワクの残留部隊の一部をセピック川流域の地域に分散させた。1945年5月にはオーストラリア軍がウェワクに侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。 内陸部に分散した日本軍将兵は飢餓に苦しみ、日本兵が日本兵や現地人を襲って食べる人肉食事件が発生したと言われる。第41師団は1944年11月18日に「人肉(敵のそれは除外する)を人肉と知りつつ食したる者は人間が犯す罪のなかでは最悪のものに当たることから死刑に処す」という命令書を出したことが確認されている。過酷な環境に耐えかねて日本軍としては珍しい集団投降をする部隊も発生した(竹永隊の降伏)。ウェワク地区での状況はドキュメンタリー映画の『ゆきゆきて、神軍』にいくつかの証言が記録されている。 オーストラリア軍の追撃戦は終戦まで続いた。食糧不足と病気により日本軍将兵は次々と死亡し、終戦頃の第18軍所属将兵の生存者は、第20師団が約1700人、第41師団が1200人、第51師団は4300人、その他を合計して約13000人だった。追撃戦におけるオーストラリア軍の損害も死傷1600人に上り、戦略的に無意味な損害を生じさせたとして士気の低下を招いた。 第18軍主力の食料・弾薬は1945年9月までには尽き果てると予想され、8月10日に全員玉砕の決意を送信した後に無線機を破壊していたが、玉砕前に終戦となった。 9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ウェワク沖合いのムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は諸説あるが第一復員局資料課は1万1,731名と記録している。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に第一次の復員船「鹿島」が到着し、将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら多くの日本兵が衰弱し息を引き取った。1946年1月末に最後の復員船「鳳翔」がウェワクを出航し、復員を完了した。 安達中将はウェワクからの復員を見届けた後、戦犯容疑によってラバウルに送られ、BC級戦犯として無期懲役の刑で服役中の1947年9月10日に部下の将兵に“人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求”したことへの謝罪を述べた遺書をしたためた後に自決した。
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