その後の戦闘と終戦とは? わかりやすく解説

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その後の戦闘と終戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「その後の戦闘と終戦」の解説

32軍司令部消滅後6月23日から、アメリカ軍沖縄南部残存日本兵掃討作戦開始した。いまや孤立化組織的抵抗ができなくなった日本軍陣地を、ひとつずつ爆薬日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器焼き払った。またサトウキビ畑水田隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した陣地から突撃しアメリカ軍前線突破しようとした日本軍部隊激戦になることもあったが、6月30日までには日本軍抵抗微弱となった。この掃討作戦日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、アメリカ軍損害783であった日本軍組織的抵抗終わった考えたアメリカ軍1945年7月2日沖縄作戦終了宣告した。 しかし、この後残存兵力による散発的な戦闘本島各地続いた。これは、第32軍司令部最後打電が「親愛なる諸子よ。諸子勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務完遂せり。諸子忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し通信また途絶し、予の指揮不可能となれり。自今諸子は、各々陣地拠り所在上級者指揮従い祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令最後なり。諸子よ、生きて虜囚辱め受くことなく悠久大義生くべし」と最後までの抵抗命ずるもので、結果的に終戦まで多く日本兵沖縄県民縛り多く犠牲者を出す原因となってしまった。牛島個人としては「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上協力はないであろう沖縄住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と語っていたとされるが、戦後沖縄県民の間には牛島対し、今も厳し見方がある。 陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊一〇〇式司偵は、沖縄方面対す偵察飛行8月に至るまで継続している、海軍による特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃続けられており、7月28日には九三式中間練習機体当り駆逐艦キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後撃沈戦果であった8月12日には第1戦艦戦隊旗艦戦艦ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃大破させ、司令官ジェシー・B・オルデンドルフ中将重傷を負わせている。8月15日玉音放送後にも、菊水作戦指揮をとった宇垣纏海軍中将部下引き連れて沖縄方面特攻出撃している。 また海軍は、沖縄フィリピンウルシーグァムといったアメリカ軍泊地との連絡路対し回天特攻多聞隊」の6隻の伊号潜を出撃させていたが、内「伊53潜」が勝山淳中尉搭乗する回天で、7月24日沖縄からフィリピン航行中護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈、また7月29日には「伊58潜」がテニアン島からフィリピン向かって航行中であった重巡インディアナポリス」を通常の魚雷攻撃撃沈している。 日本8月14日ポツダム宣言受諾して降伏したその夜には、祝砲としてアメリカ軍ありとあらゆる火器夜空いっせいに撃ちあげられあたかも数千発の花火いっせいにさく裂したかのような壮観であったが、日本の降伏事実知らない日本兵たちは、アメリカ軍内に異常事態発生したものと考えて警戒厳重にしている。 詳細は「日本の降伏」を参照 沖縄戦初期前田高地激戦から末期国吉高地まで、終始激戦最前線戦ってきた第24師団歩兵第32連隊は、約3,000名の将兵250名にまで減りながらも、終戦まで国吉洞窟陣地内で抵抗続けていた。夜襲により、アメリカ軍食料などの物資多数自動小銃軽機関銃などの兵器奪取して士気旺盛であった8月22日白旗掲げたアメリカ軍二世兵士連隊本部接触してきて日本の降伏告げたが、連隊長北郷事実確認のために、北郷の下で勇戦敢闘してきた第1大隊長の伊東孝一大尉アメリカ軍司令部に行かせた。伊東はそこで玉音放送録音聞いたが、昭和天皇声を聞いたことがなかったので「この録音だけでは降伏信ずることはできぬ、帰って協議する不調決まればわが方から発砲する」とアメリカ軍告げ連隊司令部戻って北郷報告した。若い将校らは最後突撃による玉砕主張した北郷は「陛下の命に従う」との断を下した北郷軍旗の奉焼を命じ28日午前零時厳かに軍旗奉焼式が行われたが、連隊旗手の斎藤中二郎中尉が式が終わったのち、手榴弾自決しようと決意しているのを察して斎藤勝手な行動は許さんぞ、連隊行動すべての責任自分にある。軍旗同様だ旗手たるお前ももちろんのことだ」と厳しく諫めた。翌29日生存者全員が髭を剃り容姿整えたのちに「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と最後まで投降という言葉を使うことなくアメリカ軍武装解除受けたが、アメリカ軍出迎えは非常に丁重だったという。9月3日には本島北部海軍27魚雷艇隊(運天港隊長白石信次大尉183名が、地元市長投降勧め応じアメリカ軍投降している。 第32軍司令部の中では、高級参謀の八原が、牛島から命じられ戦訓伝達任務のため日本本土へ脱出途中で捕虜になったが、同じ戦訓報告任務受けていた航空参謀神直道少佐(後に中佐)は、無事に本土脱出して生き残っている。一方長野作戦参謀情報参謀木村後方参謀三宅通信参謀それぞれ遊撃戦指導大本営報告のため司令部出て北部への脱出計った成功せず全員戦死したか行不明となっている。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民投降勧告され多く住民アメリカ軍収容されている。 9月7日南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将高田利貞少将加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍沖縄戦降伏文書調印しジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将日本軍降伏受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した

※この「その後の戦闘と終戦」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「その後の戦闘と終戦」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。

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