その後の戦闘と終戦
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第32軍司令部消滅後の6月23日から、アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始した。いまや孤立化し組織的抵抗ができなくなった日本軍の陣地を、ひとつずつ爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した。陣地から突撃しアメリカ軍の前線を突破しようとした日本軍部隊と激戦になることもあったが、6月30日までには日本軍の抵抗は微弱となった。この掃討作戦で日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、アメリカ軍の損害は783名であった。日本軍の組織的抵抗は終わったと考えたアメリカ軍は1945年7月2日に沖縄作戦終了を宣告した。 しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。これは、第32軍司令部の最後の打電が「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と最後までの抵抗を命ずるもので、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛り、多くの犠牲者を出す原因となってしまった。牛島個人としては「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と語っていたとされるが、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。 陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している、海軍による特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられており、7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった。8月12日には第1戦艦戦隊旗艦戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で大破させ、司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将に重傷を負わせている。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。 また海軍は、沖縄とフィリピン、ウルシー、グァムといったアメリカ軍泊地との連絡路に対し回天特攻「多聞隊」の6隻の伊号潜を出撃させていたが、内「伊53潜」が勝山淳中尉の搭乗する回天で、7月24日に沖縄からフィリピンに航行中の護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈、また7月29日には「伊58潜」がテニアン島からフィリピンに向かって航行中であった重巡「インディアナポリス」を通常の魚雷攻撃で撃沈している。 日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏した。その夜には、祝砲としてアメリカ軍のありとあらゆる火器が夜空へいっせいに撃ちあげられ、あたかも数千発の花火がいっせいにさく裂したかのような壮観さであったが、日本の降伏の事実を知らない日本兵たちは、アメリカ軍内に異常事態が発生したものと考えて警戒を厳重にしている。 詳細は「日本の降伏」を参照 沖縄戦初期の前田高地の激戦から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきた第24師団歩兵第32連隊は、約3,000名の将兵が250名にまで減りながらも、終戦まで国吉の洞窟陣地内で抵抗を続けていた。夜襲により、アメリカ軍の食料などの物資、多数の自動小銃や軽機関銃などの兵器を奪取して士気も旺盛であった。8月22日に白旗を掲げたアメリカ軍二世兵士が連隊本部に接触してきて日本の降伏を告げたが、連隊長の北郷は事実確認のために、北郷の下で勇戦敢闘してきた第1大隊長の伊東孝一大尉をアメリカ軍の司令部に行かせた。伊東はそこで玉音放送の録音を聞いたが、昭和天皇の声を聞いたことがなかったので「この録音だけでは降伏を信ずることはできぬ、帰って協議する、不調と決まればわが方から発砲する」とアメリカ軍に告げ、連隊司令部に戻って北郷に報告した。若い将校らは最後の突撃による玉砕を主張したが北郷は「陛下の命に従う」との断を下した。北郷は軍旗の奉焼を命じ、28日午前零時に厳かに軍旗奉焼式が行われたが、連隊旗手の斎藤中二郎中尉が式が終わったのち、手榴弾で自決しようと決意しているのを察して「斎藤、勝手な行動は許さんぞ、連隊の行動すべての責任は自分にある。軍旗も同様だ、旗手たるお前ももちろんのことだ」と厳しく諫めた。翌29日、生存者全員が髭を剃り容姿を整えたのちに「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と最後まで投降という言葉を使うことなく、アメリカ軍の武装解除を受けたが、アメリカ軍の出迎えは非常に丁重だったという。9月3日には本島北部の海軍第27魚雷艇隊(運天港・隊長白石信次大尉)183名が、地元市長の投降の勧めに応じ、アメリカ軍に投降している。 第32軍司令部の中では、高級参謀の八原が、牛島から命じられた戦訓伝達の任務のため日本本土への脱出途中で捕虜になったが、同じ戦訓報告任務を受けていた航空参謀の神直道少佐(後に中佐)は、無事に本土に脱出して生き残っている。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死したか行方不明となっている。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民がアメリカ軍に収容されている。 9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した。
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