その後の指揮
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「トマス・ハーディ (イギリス海軍)」の記事における「その後の指揮」の解説
1806年1月29日、ハーディは準男爵に叙された 。そして同年の5月には、北アメリカ駐留地の3等艦トライアンフの艦長に就任した。ノバスコシア州に滞在中、ハーディは最高指揮官ジョージ・クランフィールド・バークレー(英語版)の娘のアンナ・ルイーザ・バークレーと結婚した。バークレー提督がリスボンに派遣されると、ハーディもフラッグキャプテンとして2等艦バーフラーでリスボンに向かった。1811年、ハーディはポルトガル海軍から准将の称号を受けた 。 1812年の8月、米英戦争の勃発に伴い、ハーディは3等艦ラミリーズの指揮を執って北アメリカへ戻った。1814年7月、旗艦に座乗したハーディは、陸軍中佐のアンドリュー・ピルキントンの補佐を受け、旗艦以外の4隻の軍艦と、第102歩兵連隊の兵2000人と、王立砲兵中隊を乗せた数隻の輸送艦を率いて、サリヴァン砦(英語版)を攻撃した。アメリカ側の防御軍は70人の正規兵と250人の民兵で、彼らは戦わずして戦闘を投げ出した。ハーディとピルキントンは、イギリスが、イーストポートと、その近くのいくつかの島の領有化を考えていることを明確にした声明を発表した。ここの住民は、イギリス国王への忠誠を誓うか、町を出て行くを迫られた。人口の3分の2がイギリスへの忠誠を宣誓したが、一方で500人が町を出て行った。その後数週間この地にとどまったハーディは、地元の人々に好意を持たれ、かなりの尊敬を受け人気を勝ち取った。しかし、ハーディの次なる仕事である、8月9日から11日にかけての、コネチカット州ストーニンゲン(英語版)の爆撃は敗退した。イギリス海軍の連続砲撃は20の建物を焼き、馬やガチョウが焼死した。一方で公式報道によれば、かなり大規模なアメリカの防衛軍が、イギリス兵21人を殺し50人を負傷させたと述べている 。1815年1月2日、ハーディはバス勲章を授与された。 ハーディは1816年に王室のヨット、プリンセス・オーガスタ(英語版)の艦長に就任して、准将に昇進し、南アメリカ駐留地(英語版)の最高指揮官となり、1819年8月に3等艦スパーブ(英語版)を旗艦とし、新興国メキシコ、コロンビア、そしてアルゼンチンの各共和国からスペインの介入を防ぐように任務を受けた。
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