「バイロイトの第九」から現在まで
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「バイロイト音楽祭」の記事における「「バイロイトの第九」から現在まで」の解説
戦後、ヒトラー崇拝を止めなかったウィニフレッドを追放し、ヴィーラント・ワーグナー、ヴォルフガング・ワーグナーの兄弟が音楽祭を支えることとなり、バイロイトの民主化が一応なされた。1951年7月29日、フルトヴェングラー指揮の「第九」で音楽祭は再開された。再開後初出演したのはクナッパーツブッシュとカラヤンであった。再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であった。苦肉の策でヴィーラントらは、最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて、暗示的に舞台背景を表現するという、新機軸の舞台を考案する。舞台稽古初日、舞台を見回したクナッパーツブッシュは、まだセットが準備されていないのだと思い込み、「何だ、舞台がまだ空っぽじゃないか!」と怒鳴ったという。しかしこの資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに、戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻することになる「新バイロイト様式」の始まりであった。 事情が事情であったが、クナッパーツブッシュやカラヤンはこの演出に大いに不満であり、カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去った。クナッパーツブッシュもそうするつもりであったが、1953年の音楽祭に出演し、以降の出演も約束されていたクレメンス・クラウスが1954年に急死したため、慌てたヴィーラントとヴォルフガングはクナッパーツブッシュに詫びを入れ、音楽祭に呼び戻した。以降、亡くなる前年の1964年までクナッパーツブッシュはバイロイトの音楽面での主柱となった。「新バイロイト様式」の舞台は、ヴィーラントとヴォルフガングが交互に演出しながら1973年まで続いた。 1955年には初のベルギー人指揮者として、ドイツ物も巧みに指揮したアンドレ・クリュイタンスが初出演した。また、同年ヨーゼフ・カイルベルトが指揮した『ニーベルングの指環』は英デッカにより全曲録音され、これが世界初のステレオ全曲録音となった。1957年にはヴォルフガング・サヴァリッシュが当時の最年少記録(34歳)を打ち立てた。1960年には初のアメリカ人指揮者ロリン・マゼールが、史上最年少記録の更新(30歳)を果たして初出演した。1962年にはカール・ベームが、1966年にはピエール・ブーレーズが、1974年にはカルロス・クライバーがそれぞれ初出演した。 演出の方も、1966年にヴィーラントが亡くなってからは弟のヴォルフガングが総監督の職を引き継いだ。ヴィーラント亡き後、ヴィーラントの遺族とヴォルフガング一家が互いの取り巻きを交えての内紛に明け暮れ、そのスキャンダルも相まって、同族運営が大きな批判に晒されるようになったことから、1973年にリヒャルト・ワーグナー財団へ運営が移管された。同財団の運営権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府に最大の権限があり、次いでワーグナー家、バイロイト市、ワーグナー協会の順になっている。 1976年、ヴォルフガングは革新的な上演をもくろみ、音楽祭創立100周年の記念すべき『指環』の上演を、指揮者ピエール・ブーレーズと演出家パトリス・シェローのフランス人コンビに委ねた。シェローは気心知れた舞台担当や衣装担当を引き連れて、「ワーグナー上演の新しい一里塚」を打ち建てるつもりだったが、その斬新な読み替え演出は物議を醸した。初年度はブーレーズのフォルテを忌避するフランス的音楽作りともども、激しいブーイングと批判中傷にさらされ、警備のために警察まで出動するという未曾有のスキャンダルになった。しかしシェローは年ごとに演出へ微修正を施し、ブーレーズの指揮も熟練していったおかげもあり、最終年の1980年には非常に洗練された画期的舞台として、絶賛を浴びることとなった。 その後の指揮者は、ジェームズ・レヴァインやジュゼッペ・シノーポリ、ダニエル・バレンボイムなどの若手や、ロシア人指揮者ヴァルデマル・ネルソンなど新しい顔ぶれに様変わりした。2005年には東洋人として初めて大植英次が初出演を果たす。しかし、オペラ経験に乏しい大植の指揮は観客の不興を買い、1年で契約を打ち切られることとなった。翌年から『トリスタン』の指揮はベテランのペーター・シュナイダーに委ねられる。大植の降板劇は特に人種差別的なものではなく、過去の幾人かの指揮者にも起こった事態でもある。ヴィーラントと決裂してバイロイトを去ったカラヤンやマゼールの先例もあり、ショルティやエッシェンバッハらも1年で降板している。バイロイトに限らず音楽祭での降板や変更は日常茶飯事であるものの、近年のバイロイトでは(かつてのブーレーズの頃とは違い)指揮者が激しい批判を浴びた場合、守るよりも手っ取り早く熟練した指揮者と交代させられるケースが増えてきている。 そのような中、2000年に『マイスタージンガー』を振ったクリスティアン・ティーレマンは久々の大型ワーグナー指揮者の登場として高い評価を獲得した。2006年からは『指環』の指揮を任され、音楽祭の音楽面の中核的存在となっている。 演出面では、シェロー演出の成功以降、ゲッツ・フリードリヒ、ハリー・クプファーらが舞台に現代社会の政治状況を投影する手法で新風を吹き込んだ。それ以降は、これといった新機軸を確立するまでには至っておらず、逆に目新しい演出へいたずらに走る傾向を「商業的」として非難する向きもある。近年ではキース・ウォーナーやユルゲン・フリムらが一定の評価を得た反面、クリストフ・シュリンゲンズィーフによる『パルジファル』のように否定一方の不評のままで終わる演出もある。 なお視覚面では、劇作家ハイナー・ミュラー演出の『トリスタンとイゾルデ』で、日本人デザイナー山本耀司が衣装を担当し、大きな話題になった。 戦後、長年にわたって音楽祭を独裁的に切り盛りしてきたヴォルフガング・ワーグナーが2008年をもって引退を表明し、後任を巡ってその去就が注目されていたが、先のように2009年からはヴォルフガングの2人の娘が総監督の座を引き継ぐことになった。現在はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーの二頭体制に移行している。 ただし、2人は姉妹とはいうもののヴォルフガングの前妻の娘と後妻の娘という複雑な関係であり、しかも33歳差という年齢差ゆえに必ずしも親密な関係とは言いがたいようである。当初2001年にヴォルフガングが引退を表明し、後継者として指名されたのは長年『影の支配者』と云われていた後妻のグドルンだったが、ワーグナー財団によって否決され、ヴォルフガングは引退を撤回したという経緯があった。そして後継者レースの中で経験が少なく、若さやルックスのような話題などメディアを意識した挑発行為が目立つカタリーナへの疑問や、グドルンによってバイロイトを前妻とともに追われたエーファがヴォルフガングによって追放されたヴィーラントの娘ニーケ・ワーグナーと組んで、カタリーナと舌戦を繰り広げるという格好のスキャンダルをメディアに提供するなど、非常に険悪だったかつてのヴィーラントとヴォルフガング兄弟の骨肉の争いの再来ぶりに、先行きを危ぶむ声も多い。早速カタリーナは、2007年の新演出の『マイスタージンガー』の演出を自ら手掛け存在感をアピールした。しかし、その挑発的な舞台は一部の観客からブーイングを浴び、批評家やマスコミの間でも物議を醸した。 翌2008年からは、舞台中継のネットでの映像ストリーミング配信や会場外でのパブリックビューイングがカタリーナの肝煎りにより始められた(2008年は『マイスタージンガー』、2009年は『トリスタンとイゾルデ』が生中継された)。これにより、会場外の観客や世界各国のインターネット・ワグネリアンたちにもこれまで以上に音楽祭の雰囲気を楽しむことが出来るようになり、代変わりしたバイロイトらしい新機軸として評判になった。 そしてヴォルフガングが死去してから初めての音楽祭となる2010年、テレビでの生中継が実現する運びとなる(後述)。翌2011年の第100回の開催では、ユダヤとの関係改善を目論むカタリーナの計らいでイスラエル室内管弦楽団がバイロイトを訪れ、市内のホールにてロベルト・パーテルノストロの指揮により『ジークフリート牧歌』を演奏した。この年の初日の演目は新演出の『タンホイザー』。メルケル独首相やトリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁夫妻ら、著名人が訪れた。 2020年は新型コロナ大流行で中止。
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