その後の摂関
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1156年の保元の乱で藤氏長者の藤原頼長が謀反人として敗死・没官となり、乱後は新興の天皇側近が政治を主導し、上皇不在の際にも関白藤原忠通は主導権を回復できなかった。1159年の平治の乱とその後の政変で実力者の多くが死亡・失脚したことで摂関家の発言力がいくぶん回復し、1161年に後白河上皇も一時失権した後は天皇と摂関家の合議により朝政が進められたが、大殿忠通に続き摂関近衛基実が1166年に病死すると院政体制が復権した。1184年に木曽義仲が武力で院政を停止し12歳の松殿師家を摂政に就け朝政を主宰させたが、義仲敗死を受けて2か月で院政に戻る。 若い後鳥羽天皇を残して治天の後白河が1192年に崩御し上皇不在となると、関白九条兼実が朝政を主導する。しかし1196年に源通親らによる建久七年の政変で兼実は失脚し、近衛基通が関白に復帰する。政変後の朝政を主導したのは関白でなく通親で、通親外孫の土御門天皇を即位させるなどしたが、1202年の通親死去後は後鳥羽による院政が主導権を取り戻す。 承久の乱を経た鎌倉幕府影響下の朝廷で、摂家将軍藤原頼経の父九条道家が四条天皇の外祖父として太閤となり、ついで後堀河上皇崩御後に京に上皇がおらず治天が欠けている中で摂政となり、摂関政治の再来とも思われた。しかし四条天皇の夭折を境に九条家は朝廷内で浮き上がり、将軍頼経と北条得宗の対立により道家・頼経父子とも失脚した。道家失脚後、摂関の人事権は院政に戻らず、幕府に奪われる。この後、摂関の交代はもはや政治的事件としての重要性を失った。また、閑院流が国母を多数輩出する一方で摂関家からの入内自体が少なくなり、以降確実なところでは(嘉喜門院参照)、1611年の近衛前子まで摂関家出身の国母は存在しなかった。 1272年に後嵯峨法皇が崩御し亀山天皇が治天となった際、院評定の形式をそのまま踏襲して内裏で議定が行われた。1290年に治天の後深草上皇が政務から引退し伏見天皇の親政が行われた際も同様である。もはや院が欠けても天皇が院同様の治天として親裁する慣行が成立し、内覧権限は形式的なものとなった。 その後の摂関家は、荘園領主たる権門の一角として一定の勢力を保持した。南北朝時代には正平一統破棄後の北朝再建に際し、二条良基が元関白として正統性寄与のため働いた。 近世に入って豊臣秀吉が自ら関白に就任したことは摂関政治を復興させたと言えなくもない。しかし秀吉は摂関を征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」として位置付けようとしたものであり、旧来の摂関政治の復活とは軌を一にするものではなかった。 江戸時代には江戸幕府の支援で摂関家の勢力が再興された。しかし幕府の介入によって摂関家当主による「合議制」による意思決定が義務付けられた事によって、寧ろ逆に摂関政治は否定される事になった。もっとも摂関家当主の合議が朝廷の最高意志決定機関となった事は、天皇の権威を弱める事でもあり、ある意味、摂関家の権威を高める事でもあった。また禁中並公家諸法度において、摂関の席次を親王よりも上位とした事も、摂関家の権威を高め、皇室の権威を下げる事につながった。近衛基煕のように、将軍や幕閣から政治・有職などの諮問を受けた摂関家の当主もいたが、これは近衛が朝廷内において親幕府派として振る舞った事による。もちろん摂関家が常に親幕府であった訳でなく、実際にも霊元上皇が親幕府に転じると、逆に近衛は幕府とは距離をとる方針を打ち出した事もある。ともあれ幕府としては、皇室と摂関家を分断する事によって、朝廷統制に利用してきた。 幕末の王政復古により、摂政・関白は征夷大将軍などと共に廃止され、関白および人臣摂政は以後置かれていない。その後、大日本帝国憲法および旧皇室典範で皇族摂政の制度が改めて定められ、戦後の日本国憲法および皇室典範でも象徴天皇の国事行為代行者としての摂政の規定がある。
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