その後の政局とは? わかりやすく解説

その後の政局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)

薩土盟約」の記事における「その後の政局」の解説

薩土両藩が最終的に盟約解消した9月9日前日9月8日)に、薩摩藩長州藩芸州藩との間で三藩連合による共同出兵計画策定しており、土佐にはそれが知らされていなかった。大久保はこの出兵案を携行して山口へ赴き、9月18日毛利敬親・広封父子拝謁翌日昼には長州藩と、同日夜に芸州藩それぞれ派兵協定を結ぶ。9月25日頃には薩摩藩兵を乗せた軍船三田尻寄港し長州藩兵と合同し大坂湾へと出港する手筈であり、倒幕派計画では、9月中にこれらの上兵力背景に「政変」を起こし(この時点ではまだ倒幕ではない)、王政復古実現して最終的な倒幕持ち込む予定であった一方土佐藩薩摩との盟約解消後も予定していた大政奉還建白書をめざし、薩摩藩協力求め続けていた。9月23日には福岡孝弟西郷対し翌日建白書老中提出予定であることを通告する西郷上記武力政変」の実現念頭に土佐藩提出をしばらく待つように要請するが、計画知らない土佐側は当惑する同日大久保帰京し27日後藤大久保建白書提出について相談このように土佐側は建白提出による孤立化回避するためあくまで薩摩藩協力求めようとしていた。ついに10月2日小松土佐藩建白書提出して差し支えない伝え、これを受けて土佐藩は翌10月3日山内容堂署名本文寺村左膳後藤象二郎福岡孝弟神山左多衛4人の連名による別紙から成る建白書老中板倉勝静提出した。 しかし帰国中の島久光国元反対論影響され9月28日藩主忠義連名討幕明確に否定する通達出しその影響三田尻9月25日到着予定薩摩藩兵も来ず不審感じた長州藩10月3日出兵延期決定、薩芸両藩へ通達する薩摩藩兵の三田尻到着結局10月6日となる)。これ以前急ぎ上京していた広沢真臣長州藩士)と植田乙次郎(芸州藩士)が、大久保らと10月8日会談して、時期遅れて以前決定どおり三藩連携して政変起こす計画確認し倒幕派公卿中御門経之邸にいた中山忠能明治天皇外祖父)に言上する。また小松西郷大久保3人の連名討幕宣旨を降されたいとの願書提出された。しかし翌日上記長州藩出兵延期伝えられ三藩協議結果報告しようと帰国中の広沢急遽呼び戻されるなど、慌ただしい局面となる。10月14日正親町三条実愛邸で、大久保広沢それぞれ薩摩藩長州藩対する「討幕の密勅」が手渡されるが、同日徳川慶喜山内容堂建白に従って大政奉還の上表を朝廷提出倒幕派政変目論見はいったん白紙戻され実際政変王政復古の大号令)は12月まで延引されることになる(詳細小御所会議参照)。

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