その後の政局
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薩土両藩が最終的に盟約を解消した9月9日の前日(9月8日)に、薩摩藩は長州藩・芸州藩との間で三藩連合による共同出兵計画を策定しており、土佐にはそれが知らされていなかった。大久保はこの出兵案を携行して山口へ赴き、9月18日に毛利敬親・広封父子に拝謁。翌日昼には長州藩と、同日夜には芸州藩とそれぞれ派兵協定を結ぶ。9月25日頃には薩摩藩兵を乗せた軍船が三田尻に寄港し、長州藩兵と合同して大坂湾へと出港する手筈であり、倒幕派の計画では、9月中にこれらの上京兵力を背景に「政変」を起こし(この時点ではまだ倒幕ではない)、王政復古を実現して最終的な倒幕に持ち込む予定であった。 一方、土佐藩は薩摩との盟約解消後も予定していた大政奉還の建白書をめざし、薩摩藩の協力を求め続けていた。9月23日には福岡孝弟が西郷に対し、翌日に建白書を老中へ提出予定であることを通告する。西郷は上記の武力「政変」の実現を念頭に、土佐藩へ提出をしばらく待つように要請するが、計画を知らない土佐側は当惑する。同日大久保が帰京し、27日に後藤は大久保に建白書提出について相談。このように土佐側は建白提出による孤立化を回避するためあくまで薩摩藩の協力を求めようとしていた。ついに10月2日小松が土佐藩へ建白書を提出しても差し支えないと伝え、これを受けて土佐藩は翌10月3日、山内容堂署名の本文と寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛4人の連名による別紙から成る建白書を老中板倉勝静に提出した。 しかし帰国中の島津久光が国元の反対論に影響され、9月28日に藩主忠義と連名で討幕を明確に否定する通達を出し、その影響で三田尻に9月25日頃到着予定の薩摩藩兵も来ず、不審を感じた長州藩は10月3日に出兵延期を決定、薩芸両藩へ通達する(薩摩藩兵の三田尻到着は結局10月6日となる)。これ以前に急ぎ上京していた広沢真臣(長州藩士)と植田乙次郎(芸州藩士)が、大久保らと10月8日に会談して、時期は遅れても以前の決定どおり三藩連携して政変を起こす計画を確認し、倒幕派公卿中御門経之邸にいた中山忠能(明治天皇の外祖父)に言上する。また小松・西郷・大久保3人の連名で討幕の宣旨を降されたいとの願書も提出された。しかし翌日に上記の長州藩出兵延期が伝えられ、三藩協議の結果を報告しようと帰国中の広沢が急遽呼び戻されるなど、慌ただしい局面となる。10月14日、正親町三条実愛邸で、大久保と広沢がそれぞれ薩摩藩・長州藩に対する「討幕の密勅」が手渡されるが、同日徳川慶喜は山内容堂の建白に従って大政奉還の上表を朝廷に提出。倒幕派の政変の目論見はいったん白紙に戻され、実際の政変(王政復古の大号令)は12月まで延引されることになる(詳細は小御所会議を参照)。
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