こごしょ‐かいぎ〔‐クワイギ〕【小御所会議】
小御所会議
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小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定〈ぎじょう〉・参与)が行った最初の会議である。大政奉還を行った徳川慶喜の官位(内大臣)辞退および徳川宗家領の削封(辞官納地)が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体[1]路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。
- ^ 国政を、従来の譜代大名・旗本のみによる江戸幕府の統治ではなく、全国の有力諸藩の合議により国政を運営しようとする論。横井小楠、大久保一翁、勝海舟などの先駆的な人物が唱えていた。形式は有力諸藩の藩主によるもの、全国の藩に議員を募ろうとするもの、大名会議(上院)と藩士会議(下院)に分けて召集するものなど様々な意見が有った。大政奉還の時点までに具体的に設置された諸侯会議機関としては、文久3年(1863年)末から翌年2月まで設置された参預会議、慶応3年(1867年)5月に開催された四侯会議などが挙げられるが、ともに諸侯間の意見不一致により短期間で崩壊した。詳細は「公議政体論」などを参照。
- ^ 『大久保利通文書』慶応三年六月蓑田伝兵衛(薩摩藩家老)宛大久保一蔵書簡「此上は兵力を備へ声援を張御決策之色を被顕朝廷に御尽し無御座候而は中々動き相付兼候」。
- ^ 大政奉還の前日、慶喜は側近に洋学者西周に欧米の行政・議会制度について尋ねている。後に西が提出した『議題草案』では天皇を頂点とし、立法府として上・下院を設け、天皇(禁裏之権)、行政(政府之権)、諸侯会議(諸大名之権)の三権をもって国政統治するなどの構想が記されている。
- ^ この慶喜への庶政委任方針を取り計らったのは薩摩の小松であった。高橋2007、390頁。
- ^ 佐々木2004、406-407頁。
- ^ 『明治天皇紀』一巻、535頁。
- ^ 天皇は小御所会議に臨御していなかったとする説もある(佐々木2004、419頁など)。『岩倉公実記』(後述)では「聖上親臨」とある。
- ^ 『大久保利通文書』大久保・西郷・岩下連名岩倉宛書簡「大政官代三職の公論を以て大政を議せられ候日に至候ては戦より亦難」。
- ^ 『徳川慶喜公伝』第二十九章大坂城移徙「松平容堂声を励まして曰く「今日の挙、頗る陰険の所為多きのみならず、王政復古の初に当りて凶器を弄すること甚だ不詳にして、乱階を開くに似たり。抑元和偃武以来二百余年、海内をして太平の隆治を仰がしめしは徳川家にあらずや、然るを一朝故なく覇業を抛ち、政権を奉還したるは、政令一途に出でて、金甌無欠の国体を維持せんことを謀るものにして、其忠誠感ずるに堪へたり。且内府(慶喜)英明の名は既に天下に聞ゆ、宜しく之をして朝議に参預し意見を開陳せしむべし。畢竟此の如き暴挙を企てられし三四卿は幼主を擁し奉りて権柄を窃まんとするにあらざるか」と一座を睥睨して意気軒昂たり。」。
- ^ 同前「岩倉前中将叱して曰く「御前会議なり、宜しく謹粛なるべし、聖上は不世出の英主にましまし、今日の挙悉く宸断に出づ、幼沖の天子を擁し奉りてなどとは何等の妄言ぞ」と。容堂恐悚し、遽に容を改めて失言の罪を御前に謝し奉る。」。
- ^ 高橋2007所収「「公議政体派」と薩摩倒幕派」。同時代の史料『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』などに記載がないこと、およびその後も会議において山内容堂の発言力が何ら抑制されていないことなどから、明治天皇の権威を高めるための後世の文飾である疑いが強いとする。なお、高橋は同書において定説とは異なり、まず第1回小御所会議が開かれ、それを受けて王政復古の大号令が宣言された後、第2回小御所会議が開催されたとしている。
- ^ 小御所会議を題材とした有名な絵画『王政復古』(島田墨仙作)では、岩倉が容堂を難詰する場面が描かれているが、これは小御所会議から60年以上経った昭和初期の作品である。天皇の御前でありながら、藩主クラスの出席者のうち容堂だけが裃姿なのはありないと指摘されている。小御所会議にについての回想や伝聞は史料により異同があり、容堂は飲酒していたとも伝えられ、その非礼さを裃で表現した可能性もある。綺陽装束研究所主宰 八條忠基:装いがまとう意(10)島田墨仙「王政復古」『日本経済新聞』朝刊2020年1月31日(文化面)2020年9月7日閲覧。
- ^ 同前「松平大蔵大輔(春嶽)、容堂の説を助けて、「王政の初に、刑律を先にし徳誼を後にせられんこと然るべからず、徳川家数百年隆治輔賛の功業、今日の罪責を償ひて余あり」と、いはせも果てず前中将(岩倉)之を駁して「(中略)且嘉永癸丑(1853年)以来、勅命を蔑如し、綱紀を敗壊し、外は専断を以て欧米諸国と通信・貿易の約を立て、内は暴威を振ひて憂国の親王・公卿・諸侯を廃錮し、勤王の志士を戕害す。尋で無名の師を興して長防を再征し、怨を百姓に結び、禍を社稷に帰したり、其罪大なりといはざるべからず。内府果たして反省自責の心あらば、当に官位を退き、土地・人民を還して、大政維新の鴻図を翼賛すべきに、政権の空名のみを奉還して、尚土地・人民の実力を保有せり、心術の邪正、掌を指すが如し、いかでか之を召して朝議に参預せしむべき。朝廷は宜しく先づ内府に暁諭し、官位を辞退し、土地・人民を還納せしめて、其反省自責の実効を徴すべし。朝議に参預せしむるが如きは、実効の立ちたる後のことなり」といへり。」。
- ^ 『岩倉公実記』小御所会議ノ事「忠能乃チ座ヲ起チ将ニ実愛博房信篤ト私語セントス、具視之を搤止シテ曰ク聖上親臨シ群議ヲ聴キ給フ、諸臣宜ク肺肝ヲ吐露シ以テ当否ヲ論弁スベシ、何ゾ漫ニ席ヲ離レテ私語スルヲ用ヰンヤ。上(天皇)弁論ノ未ダ尽キザルヲ見給ヒ少時休憩ヲ命ジ給フ」。
- ^ なおこの休憩中に岩下方平が屋外で警備兵を指揮中の西郷隆盛を呼び出し、西郷が岩倉に対して「短刀一本あれば片が付く」と、暗に岩倉に反対派と差し違える覚悟を迫り、それを承知した岩倉が短刀を忍ばせて会議に戻ったといわれる。この話の出典は会議の出席者である浅野長勲が半世紀後に口述した『浅野長勲自叙伝』(昭和12年(1937年))などに見られるのみで『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『岩倉公実記』『明治天皇紀』などの他の史料には見えない。井上清なども著書『明治維新』(新政の演出 岩倉具視)の中で触れているが特に出典は記されていない。
- ^ 『岩倉公実記』同前「具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス。豊信(容堂)猶ホ固ク前議ヲ執リ動カザレバ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ。乃チ非蔵人ニ命ジ茂勲ヲ喚バシム。茂勲至リ座ニ著ク。具視ニ謂テ曰ク予ハ卿ガ論ヲ以テ事理当然トス。今マ辻ニ命ジ後藤ヲ諷諭シテ卿ガ論ニ従ハシメンコトヲ図ル。後藤若シ之を肯ンゼザルトキハ予ハ飽クマデ容堂ト抗弁シテ已マザラントス。将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎切ニ一蔵ヲ説キ豊信ノ議ニ従ハシメントス。一蔵敢テ聴カズ将曹乃チ象次郎ニ諷諭スルニ具視ノ論ニ対シ抗弁スルノ不利ナルコトヲ以テス。象次郎大ニ悟ル。是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルヽ尊議ハ恰モ内府公(慶喜)ガ詐謀ヲ懐カルヽヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ。願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ」。
- ^ 原口清『戊辰戦争』塙書房、1963年
- ^ 松平春嶽と徳川慶勝が徳川慶喜説得のために持参する交渉案として岩倉具視、後藤象二郎、中根雪江が合意した『奏請書』(慶喜が自発的に出す形式をとる)の内容は「今般辞職被聞食候ニ付てハ辞官仕度、且王政復古ニ付政府御用途之儀モ天下之公論ヲ以テ所領ヨリ差出候仕度奉存候事。」(『岩倉公実記』)とあり、慶喜が自発的に政府の御用のために差し出すという、かなり後退した表現に抑えられている。
- ^ 詔書の内容は「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり、此誥を承くべき諸外国帝王と其臣民とに対し祝辞を宣ぶ。朕将軍の権を朕に帰さんことを許可し、列藩会議を興し、汝に告ぐること左の如し。第一、朕国政を委任せる将軍職を廃するなり。第二、大日本の総政治は内外の事、共に同盟列藩の会議を経て後、有司の奏する所を以て朕之を決すべし。第三、条約は大君の名を以て結ぶといへども以降朕が名に換ふべし。是が為に朕が有司に命じ、外国の有司と応接せしめん。其未定の間は旧の条約に従ふべし」(『徳川慶喜公伝』第三十章)。
- ^ 会議に欠席した岩倉の工作により「徳川家ヲ始列藩宮家寺社総而一応取調」の文言が削除されるといった混乱はあったが、結局慶喜に対する御沙汰書は以下のようになった。「今般辞職聞召されたるについては朝廷辞官の例に倣ひ、前内大臣と仰出され候事。政権返上聞召されし上は、御政務御用度の分、領地の中より取調の上、天下の公論を以て御確定遊ばさるべく候事。右両件心得までに御沙汰候事」(『徳川慶喜公伝』第三十章)。
- 1 小御所会議とは
- 2 小御所会議の概要
- 3 小御所会議の展開
- 4 以後の政局への影響
- 5 脚注
小御所会議
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しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して[要出典]会議に参加した。豊信は幕府・将軍の側に立って意見したものの、会議は岩倉の説に決まり、徳川慶喜に対して辞官納地を命ずることが決定した。その後、有栖川宮熾仁親王が明治天皇の許可を取った。
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小御所会議
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詳細は「小御所会議」を参照 12月9日18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内容堂ら公議政体派は、慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。これに対し岩倉、大原らははじめ押されていたが、容堂が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、容堂も沈黙したという。この時点で辞官納地(慶喜の内大臣辞任と幕府領の全納)は決まってはいなかったが、岩倉らは徳川政権の失政を並べ「辞官納地をして誠意を見せることが先決である」と主張する。 容堂らは慶喜の出席を強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能が休憩を宣言した。同会議に出席していた岩下方平は、西郷隆盛に助言を求めた。西郷は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べ、岩倉を勇気付ける。このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らの主導で会議は進められ辞官納地が決した(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)。 なお、容堂が慶喜の即時招致を求めて激しい議論を行ったことは、同時代史料が一致して記載している事柄であるが、これに反論して岩倉が一喝したという著名な挿話については、同時代史料に記載がなく、1906年に完成した『岩倉公実記』において初めて登場する。このため、「岩倉の一喝」についてはその存在を否定する見解がある。
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小御所会議
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同日夕刻開かれた小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地に関して討幕・公儀政体派両陣営が激しく意見を対立させた。この会議では京都所司代・京都守護職の免職も当初の議題に含まれていたが、会議中に桑名藩主・松平定敬は京都所司代を自ら辞職し、会津藩主・松平容保も同様に京都守護職を辞したため、会議は徳川慶喜の地位に対するもののみとなった 。冒頭で司会の公家・中山忠能が「大政奉還に際し、先ず一点、無私の公平で、はじめに王政の基本を定める公議を尽くすべき」旨を述べ、公卿の間で「内府公(内府は内大臣。慶喜のこと)は政権を返上したが、おこなった目的の正邪が弁じ難いため、実績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると、前土佐藩主・山内容堂が大声を発して議論をはじめ「速やかに内府公(慶喜公)のほうから朝議にご参与していただくべきだ」と主張。公卿・大原重徳に「内府公(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知れないため、しばらく朝議に参与させない方がよい」と反論されると山内は抗弁し、「今日の(会議参加者の)ご挙動はすこぶる陰険なところが多い。そればかりではなく、凶器をもてあそんで、諸藩の武装させた兵どもに議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢をしくにいたっては陰険さが最もはなはだしく、くわしい理由すら分からぬ。王政復古の初めにあたっては、よくよく公平無私な心でなにごとも措置されるべきでござろう。そうでもございますまいば、天下の衆心を帰服させられもすまい。元和偃武から300年近くも天下泰平の世を開かれたのは徳川氏ではござらぬのか。なのに或る朝なれば突然理由もなく、大いなるご功績のあらせられる徳川氏ともあろうおかたをおそれおおくも排斥いたすとはいったい何事なのか。これぞ恩知らずというものではないか。いま内府公(慶喜公)がご祖先からご継承された覇権をも投げうたれ、ご政権をご返上なされたのは政令一途であらせられるからに違いなく、金甌無欠の国体を永久に維持しようとしたものであらせられます。かの忠誠のほどは、まことこのわたくしなどにも、感嘆をこらえがたいほどだ。しかも、内府公(慶喜公)のご英明の名は、すでに天下にとどろいているのではないのか。一刻でも早く、すみやかに内府公(慶喜公)のほうへ朝議にご参与していただき、台慮(たいりょ)(貴人の考え)を開陳していただき遊ばされるべきだ。しかるに、2、3の公卿のかたがたはいったいどんなご見識をもってこんな陰険な暴挙をなされる。わたくしにはすこぶる理解しがたい。恐らくではありますが、幼い天皇をだきかかえ、この国の権勢を盗もうとたくらむ悪意でもおありになるのではございますまいか。まこと天下に戦乱の兆しを作るくわだてと申すべきでござろう」と一座を睥睨すると、意気軒高に色を成し主張した。越前藩主・松平春嶽も「王政を施行する最もはじめのときにあたって、刑罰の名をとって、道徳の方を捨ててしまうのは、はなはだよろしくない。徳川氏にあらせられては200余年の太平の世を開かれた。幕府による天下泰平の功績はこんにちのわずかな罪を償うに余りありましょう。皆さまもよくよく、土佐殿(山内容堂公)のお言葉をお聞きになるべきです」と、山内に歩調をあわせた大論陣を張った。会議に参加していた福井藩士・中根雪江による『丁卯日記』によると、薩摩藩士・大久保利通が「幕府が近年、正しい道に背いたのははなはだ重罪なだけでなく、このたびの内府公(慶喜公)の処置につきまして、わたしが正否を問いますと、尾張侯(徳川慶勝)、越前侯(松平春嶽)、土佐侯(山内容堂)、おさんかたの無理にお立てになった説をうのみにすべきではございません。事実をみるに越したことはない。まず内府公(慶喜公)の官位をけなしてみまして、所領を朝廷へ収めるよう命じまして(辞官納地)、わずかなりとも不平不満の声色がなく、真実をみることができましたならば、すみやかに参内を命じ、会議に参加していただけばよろしい。もしそれと違って、一点でも要求受け入れを拒んで、あるいはふせぐ気配があったなら、政権返上(大政奉還)はうそいつわりの策略であります。さすれば、実際に官位剥奪のうえ領地も削り、内府公(慶喜公)の罪と責任を天下に示すべきであります」といい、公家・岩倉具視は大久保の説に追従しまわりにも採用するようしきりに勧めながら「内府公(慶喜公)の正邪を分かつには、空論で分析をもてあそぶより、実績を見るに越したことはない」と弁論をきわめ、山内や春嶽とおのおの正論と信じるところを主張しあって、会議は決着しなかった。この後、会議は休憩に入るが、休憩中に薩摩藩士・西郷隆盛が「短刀一本があれば片が付く」と刀を示した。この西郷の言葉を聴いてから休憩室に入った岩倉は「山内容堂がなおも固く前と同じ論陣を張るなら、私は非常手段を使って、ことを一呼吸の間に決するだけだ」と心に期し、広島藩主・浅野長勲へ土佐藩士・後藤象二郎を説得するよう依頼した。浅野はその様にはからうと「私は岩倉卿の論が事理の当然とします。いま(広島藩士)辻維岳に命じ、後藤を説得させていますから、しばらくお待ちください。後藤がうなずきませんでしたら、私は飽くまでも土佐殿(山内容堂)に抗弁してやめませんから」と岩倉へ伝えた。五藩重臣の休憩室で、後藤は大久保へ山内説に従わせようとしていた。しかしすでに同じ休憩室にいた辻が、浅野の指令をうけて「岩倉説に抗弁すると主君(山内容堂)に不利な結果になる」と遠回しに後藤を諭していたこともあり、大久保はなんらききいれることがなかった。後藤はそれまで主君・山内の説どおり、「会議参加者一同が陰険なふるまいをやめ、公正にことを決める」よう一所懸命に全員を諭しつづけてきていたが、主君が間接的に命をおびやかされている事に悟ると、今度は山内と春嶽の方を向いて「さきほど殿が申されたまこと立派なご説法は、さも内府公(慶喜公)がはかりごとを企てていらっしゃることをご承知の上で、隠そうとなさっているかのごとく嫌疑されております。願わくばどうかもう一度お考え直されますように」といった。明治天皇がすでに席に着き、会議参加者もあつまって議論が再開されると、山内は腹心の後藤にも裏切られ心が折れてしまい、敢えてもう一度論戦を始めようとしなかった。再開された議決では岩倉・大久保らの説に決まり、有栖川宮熾仁親王が天皇の裁可を得た。 こうして朝廷は、内大臣・慶喜へ官位返上と、領地からくる収入を天皇家へ献上するよう命じた。 最終的には岩倉や大久保らの意見が通ったが、会津藩・桑名藩など、親徳川派の譜代藩はこの処分に不満を募らせ一触即発の剣幕となる。これら不穏な動静に対し、西本願寺・徳如上人が御所警固のため、六条侍および僧を参集させ尊王近衛団を結成。さらに征討総督宮の護衛、錦旗守備、諜報活動を行った。
※この「小御所会議」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
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