小御所の平面の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
平面図に大きな変化が現れるのは次ぎの4つである。 a11:鎌倉将軍御所の小御所。弘安4年(1281) a12:鎌倉佐々目遺身院。永仁元年(1323) a13:伏見殿小御所。永和2年(1376) a14:青蓮院里坊・十楽院。(14世紀前半) 鎌倉将軍御所の小御所:画像a11は鎌倉将軍御所で唯一残る弘安4年(1281)の小御所の指図である。側柱と入側柱により、屋根の小屋組を支える構造(画像110)では無くなっている。もはや「母屋・庇の構造」ではない。 鎌倉佐々目遺身院:画像a12は「永仁元年(1323)胤助伝法灌頂記」(金沢文庫)にある鎌倉佐々目遺身院の指図及び上野勝久が起こした平面図を元に作成した。ここでも小屋組、つまり屋根の架構が平面から完全に分離している。「母屋・庇の構造」(画像110)ではない。 伏見殿小御所:画像a13は永和2年(1376)に伏見殿小御所で光厳院御十三回忌結縁灌頂が行なわれたときの指図及び川上貢が復元した平面図を基に作成した。ここでも「母屋・庇の構造」(画像110)では無くなっている。柱間寸法は不明だが、藤田盟児は畳みが追い回しに敷き詰められていることから柱間寸法は7尺ぐらいではないかとする。この小御所は『安任卿記』永仁6年(1298)7月27日条の割註に「以御堂北小御所為御所」とあったものである可能性も高い。もしそうであれば13世紀末には最上級貴族・皇族の寝殿造にも、ケ(褻)のエリアには後に書院造に発展する建築様式が既に生まれていたことになる。 門跡青蓮院の里坊・十楽院:画像a14は鎌倉時代末期より南北朝時代初期頃の状況を示す配置図(画像a24)から小御所のみ切り取ったものである。佐々目遺身院同様に「母屋・庇の構造」(画像110)から完全に脱却している。
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