小御所会議の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:30 UTC 版)
明治天皇の外祖父である議定・中山忠能から開会が宣言された後、公家側が「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうかは怪しい。忠誠を実績を持って示す(辞官納地を指す)よう譴責すべきである」との議題を出す。しかし山内容堂はそれを遮り、「この会議に、今までの功績がある慶喜公を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と論陣を張った。それに対し、岩倉が「帝は不世出の英主であり、今日のことは全て帝のご決断である。それを幼いとは妄言である」旨を述べて論駁したため、容堂が失言を謝罪した。ただし、この容堂と岩倉のやり取りは後に作られた「挿話」であるという説もある。 松平春嶽が容堂に助け船を出し、慶喜の出席を重ねて求めたが、岩倉や大久保利通は徳川家の罪状を並べてこれを断然拒否した。大久保は慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、それがない時は免官削地を行いその罪を天下にさらすべきと主張したが、後藤象二郎は公明正大な措置が肝心でこの会議は陰険であると容堂の論を支持。大久保・後藤の間で激論が交わされる。しかし、春嶽と徳川慶勝が容堂を支援。岩倉・大久保案は島津茂久が賛同したのみで、会議の趨勢は慶喜許容論に傾きつつあった。中山忠能が場を納めようと正親町三条実愛らと協議しようとしたところ、岩倉が「御前会議で私語するとは何事か」と叱り、一時休憩となった。 休憩中、岩倉は広島藩の浅野茂勲に対し、この会議での妥協はあり得ず、いざというときは非常手段を取らざるを得ないとの覚悟の程を語り、茂勲の賛同を得る。その知らせを辻将曹が後藤に伝え、妥協を促した。後藤もここに至っては無駄な抵抗となることを悟り、山内容堂を説得。結局、春嶽や容堂もに決議に従うこととなった。こうして夜半まで続いた小御所会議は決着し、松平春嶽と徳川慶勝が慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることが決定された。 新政権の三職を集めて行われた初めての会議であったが、上記のごとく岩倉、大久保、後藤を除けば小御所会議での実際の発言は全て議定からなされており、実質的には諸侯会議の色彩が強かった。
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