小御所会議での豊信
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小御所会議の場で、豊信は岩倉などと激しい議論を交わした。 会議冒頭に中山忠能が、「大政奉還に際し先ず一点、無私の公平を以て、はじめに王政の基本を定める公議を尽くすべき」旨を発言し、公卿の中に「内府(慶喜)は政権を返上したがそれをおこなった目的の正邪が弁じ難いため、実績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると、容堂は大声を発して議論をはじめ、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線、すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、[独自研究?]「速やかに徳川慶喜を朝議に参与させるべきだ」と主張した。大原重徳に「内府(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知らないため、しばらく朝議に参与させない方がよい」と反論されると、容堂は抗弁し、「今日の(会議参加者の)挙動はすこぶる陰険なところが多いだけでなく、凶器をもてあそび、諸藩の武装した兵隊に議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢を布くにいたってはその陰険さが最も甚だしく、詳らかに理由が分からない。王政復古の初めにあたっては、よく公平無私な心で何事も措置されるべきで、さもなければ天下の衆心を帰服させることはできないであろう。元和偃武から300年近くも天下泰平の世を開いたのは徳川氏ではないか。それなのに、ある朝になったら突然、理由もなくその大きな功績ある徳川氏を排斥するとは何事なのか。恩知らずではないか。今、内府(慶喜)が祖先から継承した覇権を投げうって、大政奉還したのは政令に一途だからで、金甌無欠の国体を永久に維持しようとしたものであり、その忠誠はまことに感嘆するのをこらえがたい。しかも内府(慶喜)の英明の名は既に天下に聞こえている。速やかに彼を朝議に参与させ、意見を開陳させるべきである。しかるに、2、3の公卿はどんな意見をもってこんな陰険な暴挙をするのか。すこぶる理解しがたい。恐らくは幼い天皇をだきかかえ、権勢を盗もうと欲する意図があるのではないか。まことに天下に戦乱の兆しを作るものである」と、一座を睥睨し、意気軒高に色を成して主張した。また容堂は、岩倉、大久保が慶喜に対して辞官納地を主張したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で主張したことに対して、徳川家を中心とする列侯会議の政府を要求した[要出典]。松平春嶽も「王政施行のはじめに、刑律の名を取って道徳を捨てるのは甚だ不可である。徳川氏は200余年の太平を開いた。その功績は今日の罪を償うに足る。よく容堂の言葉を容れるべきだ」と、容堂と共に大論陣を張った。なお、岩倉具視側の記述である多田好間・編『岩倉公実記』では、その際、岩倉が容堂を叱って「これは御前会議である。容堂卿はまさに粛慎すべきである。聖上(明治天皇)は不世出の英材にして、大政維新の大事業を成し遂げられた。今日の挙動はことごとく陛下の判断に出たものである。みだりに『幼い天皇をだきかかえ、権勢を盗もうとする』などと言うのは、無礼の甚だしいものではないか」といい、容堂はおそれて失言の罪を謝った、とされているものの、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(2007年)では、他の一次史料などに共通して見られないこの逸話は、後から岩倉側によって挿入された虚構の作り話とする。なお他の一次史料である『丁卯日記』では、先に大久保利通が席を進んで「幕府が近年、正しい道に背いたのは重罪であるのみならず、このたびの内府(慶喜)の処置についてその正否を問うに、無理に尾張候(徳川慶勝)、越前候(松平春嶽)、土佐候(容堂)の立てた説をうのみにすべきではない。事実をみるに越したことはない。まず内府(慶喜)の官位をけなし、所領を朝廷へ収めるよう命じて(辞官納地)、わずかなりとも不平の声色がなく真実をみることができれば、速やかに参内を命じ会議に参加させればよい。もしこれと違って、一点でも要求の受け入れを拒んだりふせいだりする気色があれば(大政奉還は)いつわりなので、実際に官位をけなし領地を削り、内府(慶喜)の罪と責任を天下に示すべきである」といい、岩倉は大久保の説に追従して周りにも採用するようしきりに勧め「(慶喜の)正邪を見分けるに、空論で分析するより、実績を見て知るべきである」と弁論と極め、容保・春嶽らと対立し互いに正論と信じる主張をして決着しなかった、とされている。こうして会議は容堂らの張る堅固な論陣のもと一旦休会することになった。会議出席者である芸州藩主・浅野長勲『浅野長勲自叙伝』(1937年)によれば、休憩中に、会議に参加せず警戒諸軍の指揮に就いていた西郷隆盛は、薩摩藩の者に会議の真情を聴くと、驚く気配もなく「短刀一本あれば片が付く」と、剣を示した。この西郷の言葉を聴くと退いて休憩室に入った岩倉は、「容堂がなお固く同様の論陣を張るつもりなら、私は非常手段を使って事を一呼吸の間に決するだけだ」と心に期した。岩倉は浅野を一室に誘って「薩土(薩摩藩と土佐藩)の間で議論が大いに衝突している。これによって遂に維新の事業も水泡に帰るだろう」と深く憂慮する旨の発言をし、浅野へ(容堂の部下である)後藤象次郎を説得せよ、と依頼した。そこで浅野が岩倉へ「私は(岩倉)卿の論が事理の当然とする。今、(自分の部下の)辻維岳に命じて後藤を説得させ、(岩倉)卿の論に従わせようと図っている。後藤がもしうなずかなければ、私は飽くまで容堂に抗弁してやめないであろう」といった。五藩重臣の休憩室で後藤が大久保利通へ容堂の主張に従わせようとするものの、既に同じ休憩室にいた辻が岩倉の論に抗弁する事は不利だと後藤へ遠回しに諭していたために、大久保は聞き入れなかった。それまで主君である容堂の説を推し、陰険を排して公正に出るよう一同に諭してやまなかった後藤だったが、事の趨勢に大いに悟ったところがあり、容堂と春嶽をみて「先ほど(容堂と春嶽らの)主張された立派な議論は、さも内府(慶喜)公がいつわりのはかりごとをお持ちになっている事を知り、それを隠そうとしているかのごとく(会議参加者らに)嫌疑されている。願わくばもう一度考え直されんことを」といった。明治天皇が既に席に着き、親王と諸臣が再び集まり会議を続けようとした。ここで容堂は心が折れ、敢えて再び、論戦しようとはしなかった。
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