小御所会議での豊信とは? わかりやすく解説

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小御所会議での豊信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 15:06 UTC 版)

山内容堂」の記事における「小御所会議での豊信」の解説

小御所会議の場で、豊信は岩倉などと激し議論交わした会議冒頭中山忠能が、「大政奉還際し先ず一点無私の公平を以てはじめに王政基本定め公議尽くすべき」旨を発言し公卿中に内府慶喜)は政権返上したがそれをおこなった目的正邪弁じ難いため、実績罪科咎めるべきだ」との意見みられると、容堂は大声発して議論をはじめ、自分自身直接会議参加して認めていた王政復古の大号令を、それまで自分持論であった列侯会議路線、すなわち徳川宗家温存路線根本的に反するが故に、[独自研究?]「速やかに徳川慶喜朝議参与させるべきだ」と主張した大原重徳に「内府慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知らないため、しばらく朝議参与させない方がよい」と反論されると、容堂は抗弁し、「今日の(会議参加者の)挙動すこぶる陰険なところが多いだけでなく、凶器もてあそび諸藩武装した兵隊議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢布くいたってはその陰険さが最も甚だしく詳らかに理由分からない王政復古初めにあたっては、よく公平無私な心で何事も措置されるべきで、さもなければ天下衆心帰服させることはできないであろう元和偃武から300年近く天下泰平の世を開いたのは徳川氏ではないか。それなのに、ある朝になったら突然、理由もなくその大きな功績ある徳川氏排斥するとは何事なのか。恩知らずではないか。今、内府慶喜)が祖先から継承した覇権投げうって、大政奉還したのは政令一途だからで、金甌無欠国体永久に維持しようしたものであり、その忠誠まことに感嘆するのをこらえがたい。しかも内府慶喜)の英明の名は既に天下聞こえている。速やかに彼を朝議参与させ、意見開陳させるべきである。しかるに2、3公卿はどんな意見をもってこんな陰険な暴挙をするのか。すこぶる理解しがたい恐らくは幼い天皇だきかかえ権勢盗もう欲する意図があるのではないかまことに天下戦乱兆し作るのである」と、一座睥睨し意気軒高に色を成して主張した。また容堂は、岩倉大久保慶喜に対して辞官納地主張したことについては、薩摩土佐尾州芸州土地そのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地返納せねばならないのかと徳川宗家擁護行い先ほど天皇中心とする公議政体政府会議主張したことに対して徳川家中心とする列侯会議政府要求した[要出典]。松平春嶽も「王政施行はじめに刑律名を取って道徳捨てるのは甚だ不可である。徳川氏200余年太平開いた。その功績今日の罪を償うに足る。よく容堂の言葉容れるべきだ」と、容堂と共に論陣張った。なお、岩倉具視側の記述である多田好間・編『岩倉実記』では、その際岩倉が容堂を叱って「これは御前会議である。容堂卿はまさに粛慎すべきである聖上明治天皇)は不世出の英材にして、大政維新の大事業成し遂げられた。今日挙動ことごとく陛下判断出たのであるみだりに『幼い天皇だきかかえ権勢盗もうとする』などと言うのは無礼甚だしいものではないか」といい、容堂はおそれて失言の罪を謝った、とされているものの、高橋秀直幕末維新政治天皇』(2007年)では、他の一次史料などに共通して見られないこの逸話は、後から岩倉側によって挿入され虚構作り話とする。なお他の一次史料である『丁卯日記』では、先に大久保利通が席を進んで幕府近年正しい道に背いたのは重罪であるのみならずこのたび内府慶喜)の処置についてその正否を問うに、無理に尾張候(徳川慶勝)、越前候(松平春嶽)、土佐候(容堂)の立てた説をうのみにすべきではない。事実をみるに越したことはない。まず内府慶喜)の官位をけなし、所領朝廷収めるよう命じて(辞官納地)、わずかなりとも不平声色がなく真実をみることができれば速やかに参内命じ会議参加させればよい。もしこれと違って一点でも要求受け入れ拒んだりふせいだりする気色があれば(大政奉還は)いつわりなので、実際に官位をけなし領地削り内府慶喜)の罪と責任天下に示すべきである」といい、岩倉大久保の説に追従して周りにも採用するようしきりに勧め「(慶喜の)正邪見分けるに、空論分析するより、実績見て知るべきである」と弁論極め、容保・春嶽らと対立し互いに正論信じ主張をして決着しなかった、とされている。こうして会議は容堂らの張る堅固な論陣のもと一旦休会することになった会議出席者である芸州藩主・浅野長勲浅野長勲自叙伝』(1937年によれば休憩中に会議参加せず警戒諸軍指揮に就いていた西郷隆盛は、薩摩藩の者に会議真情聴くと、驚く気配もなく「短刀一本あれば片が付く」と、剣を示した。この西郷言葉聴く退いて休憩室入った岩倉は、「容堂がなお固く同様の論陣を張るつもりなら、私は非常手段使って事を一呼吸の間に決するだけだ」と心に期した岩倉浅野一室誘って「薩土(薩摩藩土佐藩)の間で議論大い衝突している。これによって遂に維新事業水泡帰るだろう」と深く憂慮する旨の発言をし、浅野へ(容堂の部下である)後藤象次郎説得せよ、と依頼した。そこで浅野岩倉へ「私は(岩倉)卿の論が事理の当然とする。今、(自分部下の)辻維岳命じて後藤説得させ、(岩倉)卿の論に従わせようと図っている。後藤がもしうなずかなければ、私は飽くまで容堂に抗弁しやめないであろう」といった。五藩重臣休憩室後藤大久保利通へ容堂の主張に従わせようとするものの、既に同じ休憩室にいた辻が岩倉の論に抗弁する事は不利だ後藤遠回しに諭していたために、大久保聞き入れなかった。それまで主君である容堂の説を推し陰険排して公正に出るよう一同に諭してやまなかった後藤だったが、事の趨勢大い悟ったところがあり、容堂と春嶽をみて「先ほど(容堂と春嶽らの)主張され立派な議論は、さも内府慶喜)公がいつわりはかりごとお持ちになっている事を知り、それを隠そうとしているかのごとく(会議参加者らに)嫌疑されている。願わくばもう一度考え直されんことを」といった。明治天皇が既に席に着き親王諸臣が再び集まり会議続けようとした。ここで容堂は心が折れ敢えて再び、論戦しようとはしなかった。

※この「小御所会議での豊信」の解説は、「山内容堂」の解説の一部です。
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