新政府方針案の後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:30 UTC 版)
鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、徳川家追討とともに新たな行政制度を整える必要から三職の下に七科を設置、のちに三職八局制となる。 詳細は「近代日本の官制#明治時代初期」を参照 この間、名目的に要職に任じられた公家・諸侯らが実務に疎かったことから、倒幕派各藩などから召集された徴士が実務を握り、維新官僚として成長し、次第に行政の主導権を握るようになる。 1月に由利公正(越前藩士)が起草した新政府の方針案 『議事之体大意』 一 庶民志を遂け、人心をして倦まざらしむるを欲す(四民等しく皆それぞれの志を実現できる社会を目指す) 一 士民心を一にし、盛に經綸を行ふを要す(士民等しく協力して、産業を興し国家を治め整えていく) 一 知識を世界に求め、廣く皇基を振起すべし(欧米の進んだ文明を学んで、国家を発展させる) 一 貢士期限を以て、賢才に讓るべし(高位にある者は期限を限り、知恵才覚のある者に後を譲り、権力を独占してはならない) 一 萬機公論に決し、私に論ずるなかれ(政治に関することは公の会議で話し合って決め、一部の者だけで決めてはならない) この由利の草案を土佐藩の福岡孝弟が改変して『会盟』と題した。「列侯会議を興し」の字句を挿入し、「私に論ずるなかれ」を削除した。「庶民志を遂け」を「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ」に変え、「士民」を「上下」に差し替え、身分制を前提としたものにした。土佐藩は大政奉還後の公議政体として大名による諸侯会盟を主張していた。士分からすれば民衆は支配の対象でしかなかった。由利の師である横井小楠の富国策である民衆中心の民富論を理解できる者はほとんどいなかった。 『会盟』 一 列侯会議を興し、万機公論に決すべし 一 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す 一 上下心を一にし、盛んに経綸を行ふべし 一 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし 一 徴士期限を以て、賢才に譲るべし この福岡の草案を更に長州藩の木戸孝允が「列侯会議」を「広く会議」と修正し、「徴士期限を以て、賢才に譲るべし」を「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」と改変した。最終的に岩倉具視が手を加えてできたものが、3月14日神道にのっとって天皇が諸臣を率いて天地神明に誓うという形式で『五箇条の御誓文』として発せられた。 『五箇条の御誓文』 一 広く会議を興し、万機公論に決すべし 一 上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし 一 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す 一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし 一 知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし その後も公議所・集議院などの諸侯会議路線は残るが、後退していき、維新官僚による有司専制による明治政府への道が開かれるのである。
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