新政府軍の白河城攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:49 UTC 版)
「白河口の戦い」の記事における「新政府軍の白河城攻略」の解説
5月1日、新政府軍は兵力を3つに分け、本隊は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲、退路を断ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 - 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた会津軍副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。 こうして手薄になった西の立石山と東の雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、兵力を展開して城下へと突入した。列藩軍は敗走し、白川藩家老の阿部内膳は銃弾を浴び戦死、新政府軍は白河城を占領した。同盟軍は横山をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出した。新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。会津藩軍事奉行の海老名季久(海老名季昌の父)は、敗軍の責任を取り白河城下の龍興寺にて自刃した。
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