新政権の発足
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「2020年キルギス反政府運動」の記事における「新政権の発足」の解説
10月14日、ジェーンベコフはジャパロフを首相として承認。15日、ジェーンベコフは声明文を発表し、デモ隊が大統領公邸に行進を続ければ軍と治安部隊により流血の事態になるのは避けられないとし、双方に挑発に乗らないよう自制を要請。同時に、自国の市民に発砲した大統領として自国の歴史に刻まれることは望まないとし、大統領の辞任を表明した。本来であればカナトベク・イサエフ(英語版)議会議長が大統領代行となるはずであるが就任を拒否したとして、ジャパロフは同日、自らが首相と大統領代行を兼任すると発表。翌16日、アラアルカ国家官邸の議事堂にてジェーンベコフ大統領、ジャパロフ首相、イサエフ議長も出席した議会会合が開かれ、ジェーンベコフの辞任とビシュケクでの非常事態宣言の解除を承認。またイサエフ議長は大統領代行の権限を首相に譲ると表明し、ジャパロフ首相が大統領代行に就任した。 10月総選挙の再選挙(英語版)は、選挙管理委員会がいったんは12月20日に投開票と発表したが、その後延期が発表された。また大統領選挙については2021年1月10日に実施と発表された。
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新政権の発足
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皇極4年(645年)6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに倣おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。 天皇 孝徳天皇、皇太子 中大兄皇子 左大臣 阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂、内臣 中臣鎌足 国博士 高向玄理、国博士 旻 6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。 8月5日、穂積咋を東国に国司として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。 鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。 9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。 12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。
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