新政権の変遷とは? わかりやすく解説

新政権の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 01:58 UTC 版)

大化の改新」の記事における「新政権の変遷」の解説

孝徳天皇中大兄皇子不和となり、白雉4年653年)に中大兄皇子難波宮引き払って飛鳥戻り群臣もこれに従い孝徳天皇は全く孤立して翌年憤死する事件起きた。この不和背景には、孝徳天皇中大兄皇子の間の権力闘争とも外交政策対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子中大兄皇子即位せず、母にあたる皇極天皇重祚して斉明天皇となった斉明天皇時代阿倍比羅夫東北地方派遣して蝦夷討ち朝廷支配権拡大させた。一方で政情不安は続き658年有間皇子謀反起こそうとしたとして処刑された。 660年伝統的な友好国だった百済が唐・新羅連合軍唐・新羅の同盟)に攻められ滅びた661年百済遺臣要請に応じて中大兄皇子救援の兵を派遣することを決め斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫赴くが、天皇はこの地で崩御する662年百済再興遠征軍白村江の戦いで唐・新羅連合軍大敗喫し百済名実ともに滅亡する日本朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威さらされることとなった668年には新羅によって高句麗滅亡する)。中大兄皇子筑前対馬など各地水城築いて防人や烽を設置し大陸勢力侵攻備えて東の大津宮遷都する一方部曲復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛中心とした国内制度整備注力することになる。中大兄皇子数年称制続けた後に、668年即位した天智天皇)。670年新たな戸籍庚午年籍)を作り671年には初めての律令法典である近江令施行している。 671年天智天皇崩御すると、天智天皇同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇庶長子である大友皇子とが不和となり、672年壬申の乱が起こる。大海人皇子皇位継承権争奪戦勝利し大津宮から飛鳥浄御原宮遷都して即位した天武天皇改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。

※この「新政権の変遷」の解説は、「大化の改新」の解説の一部です。
「新政権の変遷」を含む「大化の改新」の記事については、「大化の改新」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新政権の変遷」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新政権の変遷」の関連用語

新政権の変遷のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新政権の変遷のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大化の改新 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS