新政権に対する国内の抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)
「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「新政権に対する国内の抵抗」の解説
クメール・ルージュが1979年1月に失脚すると、カンボジア人民は平和と自由が戻ってくると信じた。この信念は1981年に公布されたカンプチア人民共和国憲法で強固なものになり、憲法ではカンボジアは権力が人民に属し、独立した平和国家であると謳っていた。しかしカンボジア人民は、民主カンプチアの蛮行から解放されたことよりも、ベトナムが祖国を占領していると見る現状に絶望し始めた。カンボジア憲法に書かれた内容と現実には深いずれがあった。この現状認識は、ヘン・サムリン率いるカンボジア政府のあらゆる現場に、ベトナム人顧問が現れたことで強固なものになった。例えば1986年にはカンボジアの閣僚ごとに一人のベトナム人顧問が付き、3人いた副大臣の内一人に顧問が一人付いた。さらにカンボジアの閣僚が行う最終決定は、ベトナム人顧問の最終的な承認を受けなければならず、通常はこの人々が政策を決定した。 ベトナムのカンボジア占領と、ベトナムが組み込んだ政権に抵抗するため、クメール・ルージュはカンボジア人民に連帯とベトナムとの闘争を呼びかけた。しかしかつて経験したクメール・ルージュの蛮行の故に、多くのカンボジア人は、国民の自由の回復を目論む如何なる政治運動もクメール・ルージュとベトナムの双方に反対するものでなければならないと考えた。このような条件を受けて、2つの非共産主義運動がベトナムの占領と戦うために結成された。第一の組織は、右翼で西側寄りの組織で、1979年10月にソン・サン元首相により結成され、クメール人民民族解放戦線 (KPNLF) と呼ばれた。KPNLFはタイとカンボジアの国境に数か所難民キャンプを運営し、そこに数千の市民を収容していた。最盛期にはKPNLFの分遣隊は、12,000人から15,000人の戦闘員を擁すると見積もられたが、その3分の1は、1984年-1985年のベトナムの乾季攻勢における戦闘と脱走で失われた。それにもかかわらず、KPNLFは小集団のゲリラ戦により、ベトナムとその傀儡のカンプチア人民革命軍を苦しめつつ、作戦を続行した。 別の非共産主義組織はシハヌークにより結成されており、フランス語の頭字語フンシンペックで知られる、独立・平和・中立・協力をかかげるカンボジアのための民族連合戦線であった。この組織は、シハヌークが国連総会で味方として代表した後、クメール・ルージュとの関係を険しいものにしたとき結成された。フンシンペックの指導者として、シハヌークは国連総会において以下のことを求めた。政権時代の犯罪のため、クメール・ルージュの代表を除名すること、クメール・ルージュや、ベトナムがカンボジアに組み込んだPRKが、カンボジア人民を代表していないという根拠に基づき、カンボジアの議席を空席のままにすることである。彼はまた、ASEAN、特にタイが悪名高い共産主義組織への供給路を通って中国の武器供給を可能にし、クメール・ルージュを依然として承認しているとして批判もした。この強調や有効性、KPNLFやフンシンペックの人気にもかかわらず、この二つの抵抗組織はまとまりが薄いこと、また指導力、腐敗、人権侵害が行われているとされる点から内部分裂に苦しめられた。 ベトナム占領時代の初期には、カンボジアの抵抗組織には違いを超えて相互に限定的なつながりがあった。クメール・ルージュでさえ国際的に広がりを見せた支援を享受し、1980年までに国際社会の改革に向けた圧力にさらされた。ASEANは、1979年の国連総会でPRK政権との対決を通じてクメール・ルージュを後援し、また他の非共産主義運動との協調の為に血なまぐさい印象を隠すよう、クメール・ルージュ指導部に要請した。しかしクメール・ルージュと協調する考えのため、またフンシンペックとKPNLFは、蛮行で有名な共産主義組織との協調にうんざりしていることから、双方の指導部にある程度の当惑をもたらした。それにもかかわらず1981年初めには共同戦線構築に向けた討論を行うため、シハヌークとソン・サンは、追放された民主カンプチア主席キュー・サムファンとの会談に臨み始めた。 1981年8月の統一に向けた三者会談は、利害関係の対立から決裂したように見えた。シハヌークはクメール・ルージュが復活することを恐れており、ベトナム軍がカンボジアから撤退した際には、全抵抗組織は自らの武装解除を行うよう提案した。同時にソン・サンは、KPNLFが提案した連合組織において指導的な役割を果たし、カンボジアでの残虐行為により「最も損なわれた」クメール・ルージュ指導部は中国に亡命すべきだと要求した。この条件にキュー・サムファンは、対立する相手に対して、クメール・ルージュと民主カンプチアの自治が損なわれるべきではないことを思い起こさせた。1982年11月22日、ASEANの後援を受け、シンガポールは三者が対等な権限を持って連合政府を作ることを提案した。シンガポールの提案は、非共産主義運動にとって公平な合意だと考えるシハヌークからは歓迎された。 シハヌークとソン・サンが試みていることは、クメール・ルージュを孤立させようとするものだと見るキュー・サムファンは、この提案を拒否した。しかしシハヌークは妥協した。相手の提示する条件でクメール・ルージュと協同しない限り、フンシンペックに対する中国の支援がないことを知っていたからである。そのため、1982年2月、シハヌークは違いを乗り越えるために北京でキュー・サムファンと会合を設けた。「もう一つの譲歩」という言葉で、キュー・サムファンは、民主カンプチアに関連する組織に他の抵抗組織は加えず、連合政府を作ろうと提案した。しかし国際社会でカンボジアを代表する正当な国家として、全政党は民主カンプチアの法的立場を守らなければならないと強調した。1982年5月、シハヌークの要請でソン・サンはクメール・ルージュと連合政府を作ることを決意した。 1982年6月22日、三者の指導者は、タイが資金を提供する民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を創設する協定に調印し、連合政府樹立を正式決定した。従ってCGDKの内閣は、シハヌークを民主カンプチア主席に、キュー・サムファンを外交担当の副主席に、ソン・サンを首相にして成立した。内閣の下に国防と経済・金融、社会問題、厚生、軍事、メディアを担当する小委員会が6つあった。1987年までに、人民や領土、政府、最高権威を含む独立国家としての4つの基準が国内に欠けていたものの、民主カンプチアは依然として国連総会に議席を保っていた。こうした制約があったにもかかわらず、CGDK三派の部隊は、「カンボジアに関する国際会合などの妥当な国連総会決議を実施する」目的を成し遂げようと、ベトナム軍と戦い続けた。
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