白河口の戦い
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白河口の戦い(しらかわぐちのたたかい)は、戊辰戦争における戦いの1つ。慶応4年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩(旧白河藩)など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦いで、戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。列藩同盟側には名義上同盟には加わらなかった会津藩や旧幕府歩兵も参加しているが、これ以降それらの勢力も含めて列藩同盟軍と記す。
- ^ 『戊辰役戦史(上)』時事通信社、1968年、p453頁。
- ^ 『戊辰役戦史(上)』時事通信社、1968年、p459頁。
- ^ 『戊辰役戦史(上)』時事通信社、1968年、p464頁。
- ^ 『戊辰役戦史(上)』時事通信社、1968年、p460頁。
- ^ a b 広報白河, 2011 & p2.
- ^ 大山 大山はこの黒羽藩兵に関して、「小藩ながら兵制は整い、かつ勤王党でもあって、人材を江戸江川宿に学ばしめておったから指揮官に立派な人物がいた。軍監大沼渉(のち陸軍少将)の如きがその代表で、戦闘にも強かった。その兵装もミニエー銃を立前とし、七連発銃(スペンサー)までもっておったから(黒羽藩弾薬申請書 復X744)当時としては優良装備部隊であった。」(p421)と評価している。(1968: 421)
- ^ a b 大山 (1968: 444)
- ^ 大山 この他に六月二十二日に長州藩兵1中隊が白河に来援。翌日に奥州追討総督鷲尾隆聚に随従して徳島藩兵1大隊(450人)が到着した他芦野を守備していた館林藩兵2小隊が白坂に着くなど兵力の増強が図られた。(1968: 454)
- ^ <戊辰戦争150年>激戦地・白河で犠牲者思う「東西」が合同慰霊祭河北新報 ONLINE NEWS(2018年7月15日)2018年7月20日閲覧
- ^ 中原正男:奥州由来の山口「白河踊り」◇戊辰戦争で福島から長州兵が持ち帰り伝承◇『日本経済新聞』朝刊2018年6月20日(文化面)2018年6月21日閲覧
- 1 白河口の戦いとは
- 2 白河口の戦いの概要
- 3 影響
白河口の戦い
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詳細は「白河口の戦い」を参照 白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
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