蓮家寺 (福島県棚倉町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 08:20 UTC 版)
蓮家寺 | |
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所在地 | 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字新町129番地 |
山号 | 大泉山 |
院号 | 宝池院 |
宗旨 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来三尊仏立像 |
創建年 | 慶長8年(1603年) |
開山 | 秀哲上人 |
開基 | 蓮池主水、糟家彌兵衛 |
中興 | 内藤豊前守信照 |
公式サイト | 浄土宗寺院紹介Navi |
蓮家寺(れんげじ)は、福島県東白川郡棚倉町にある浄土宗の寺院[1]。板垣退助ゆかりの寺[2][3]。
概略
慶長8年(1603年)幕府代官・彦坂小刑部元正の家臣であった蓮池主水、糟家彌兵衛の両名が阿弥陀如来を奉った寺を創建。寺名は初め「阿弥陀寺」と号したが、のち施主の姓・蓮池の「蓮」と糟家の「家」にちなみ「蓮家寺」と呼ばれ、これが正式名称となった[1]。
寛永4年(1627年)棚倉藩主となった内藤豊前守信照の庇護を受け、慶安元年(1648年)徳川家光より朱印を下賜された。以後、棚倉藩は藩主の国替による交代が頻繁にあったが、幕府からは徳川綱吉、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定から朱印を下賜されている[4]。藩政期に伽藍が整えられ、山門、本堂、鐘楼、観音堂、常念佛堂、十王堂、地蔵堂が建設された[5]。
沿革
第4世住職・尊譽上人の時に、正保4年(1647年)、棚倉藩主・内藤信照が銅鐘を寄進。
第24世住職・海全の時に戊辰戦争があり、棚倉城を守備していた阿部正外は城を放火して逃亡したため、官軍は城内に本陣を営むことが出来ず、近隣の蓮家寺が官軍の本陣として使用された。この時、官軍大将として板垣退助が旧暦6月24日から7月24日までの一ヶ月宿泊している[5]。その間、三春藩の河野広中が土佐藩(断金隊)の美正貫一郎と決死の交渉を敢行し、三春藩恭順を平和裏に成功させた。蓮家寺は官軍本陣として重要な役目を果たした為、戦災を避けられたが、明治維新後、廃藩置県による棚倉藩からの庇護打ち切りによって逼塞し、加えて明治23年(1890年)1月の火災により、本堂、観音堂、庫裡が焼失[5]。
第25世住職・聖隣の時、本堂再建。消失した旧本尊の代わりに、茨城県瓜連の常福寺より阿弥陀如来三尊像を請来して本尊とした[6]。
第26世住職・良哉の時、大東亜戦争に際し、昭和19年(1944年)2月阿弥陀如来坐像[7]を供出令により供出するため棚倉駅に運搬するが、大仏を出征させることが忍び難く、駅構内に秘納。代わりに同等以上の銅を集めて供出し、戦後寺に戻された。
寺宝
- 阿弥陀如来三尊仏立像 - 仁治2年(1241年)作
- 銅鐘 - 国指定重要美術品
- 山門 - 安永4年(1775年)建立(藤田家寄進)- 棚倉町指定文化財
- 蓮家寺の大けやき - 樹高(32m)、幹囲7.6m - 福島県指定緑の文化財
- 露座の青銅大仏
- 松尾芭蕉句碑
- 常念仏1万日達成の碑(4基)
著名な墓
- 棚倉藩主・阿部正静の正室の墓
- 公文力之助義盛(迅衝隊・第六番隊士、慶応四戊辰六月二十四日戦死于奥州金山駅・年二十四[8])の墓
- 弔魂之碑 - 戊辰戦争で戦死した棚倉藩家老・阿部内膳を筆頭とする同藩四十六名、殉難者十二名を弔魂する碑で、戊辰戦より12年目の十三回忌に際して建立されたもの。題字は旧棚倉藩主・阿部正功の揮毫による。
交通アクセス
- JR白河駅・新白河駅からJRバス磐城棚倉行きに乗りで新町で下車
脚注
- ^ 『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編
- ^ 平成24年度「桜プロジェクト」福島県県南地方振興局案内板による。
- ^ 『千代田屋クラの戊辰戦棚倉』福井節子著、2021年、30頁
- ^ a b c 『千代田屋クラの戊辰棚倉』福井節子著、2021年
- ^ 常福寺の所蔵となる前は、水戸藩桂村の阿弥陀寺(建暦2年(1212年創建)の本尊。天保14年(1842年)の廃仏毀釈によって阿弥陀寺が廃寺となり、常福寺に遷されていたもの。
- ^ 享保18年(1733年)作、願主・加賀国金沢の僧一誉浄心、座高184cm(光輪までの最座高222cm)、蓮台82cm
- ^ 『千代田屋クラの戊辰棚倉』福井節子著、2021年、55頁
参考文献
- 『古棚倉一巡記』
- 『浄土宗寺院紹介Navi』
- 『千代田屋クラの戊辰棚倉』福井節子著、2021年
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