内藤信照とは? わかりやすく解説

内藤信照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 10:07 UTC 版)

 
内藤信照
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1592年
死没 寛文5年1月19日1665年3月5日
別名 弥七郎(通称
戒名 清浄院長誉良栄哲春
墓所 新潟県村上市の光徳寺
官位 従五位下豊前守
幕府 江戸幕府 大坂城代
主君 徳川家光家綱
陸奥棚倉藩
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤信正、母:石川康通の娘
兄弟 信照信武、信之、金森重次正室、水無瀬氏信室、内藤信義室、堀親昌継室、信直植村泰朝正室、左近
阿部正次の娘
信良、鳥居和俊室、主膳、信全、亀松
養女堀利長正室
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内藤 信照(ないとう のぶてる)は、江戸時代前期の譜代大名陸奥国棚倉藩の初代藩主。官位従五位下豊前守

生涯

文禄元年(1592年内藤信正の子として伊豆国韮山にて誕生した。多病のため弟・信武が嗣子となっていたが、元和5年(1619年)に信武が夭折、再び嗣子となった。元和7年(1621年)、従五位下・豊前守となる。寛永3年(1626年)に家督を継ぎ、寛永4年采地を陸奥国白川菊多および常陸国多賀の3郡に移されて、棚倉城を居所とした。寛文4年の「内藤信照宛領地朱印状」(『寛文朱印留』上巻152から153頁)では5万90石となっている。

棚倉においては正保4年(1647年)8月からの大規模な検地を行なって、藩政の基礎を固めた。また寛永6年(1629年紫衣事件で配流となった玉室宗珀の身柄を預かっている。慶安2年(1649年)から承応元年(1652年)まで大坂城代も務めた。

寛文5年(1665年)1月19日に死去した。享年74。跡を長男の信良が継いだ。

葬地は福島県棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(「寛政譜」新訂13巻200頁)。現在は新潟県村上市の光徳寺に墓所がある。

系譜

子女は「寛政譜」記載の子女は養女1名を含む4男2女である(201頁)。

父母

正室

子女

  • 内藤信良(長男)生母は正室
  • 内藤主膳(次男)
  • 内藤信全(三男)
  • 内藤亀松(四男)
  • 家臣鳥居和俊室

養女

出典および参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 200より201頁
  • 史料館叢書1『寛文朱印留』上巻 東京大学出版会、1980年 152から153頁
  • 『棚倉町史 1』福島県棚倉町、1982年 338から340頁および344から345頁(正保検地に関して)
  • 辻善之助『日本仏教史』8巻 岩波書店、1961年 226より260頁(紫衣事件と宗伯の配流に関して) 
先代
2代:内藤信正
内藤家(信成系)当主
3代
次代
4代:内藤信良




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