三枝守昌とは? わかりやすく解説

三枝守昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/11 07:02 UTC 版)

 
三枝守昌
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正13年(1585年
死没 寛永16年閏11月29日1640年1月22日
別名 勘解由(通称)
戒名 松嶽院殿喜参宗悦大居士
墓所 東京都新宿区若葉西念寺
千葉県南房総市山名の智蔵寺
官位 従五位下、伊豆
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠忠長家光
駿河駿府藩御附家老安房三枝藩
氏族 三枝氏
父母 父:三枝昌吉、母:三枝昌光の娘
兄弟 三枝守吉室、守昌、守秋、遠山彦左衛門室、小菅大学室、海野市助室、守盛、守真、酒依昌次?
正室:諏訪頼水の娘
守全、諏訪頼増、守定、守行、守秀
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三枝 守昌(さいぐさ もりまさ)は、江戸時代前期の旗本大名三枝昌吉の子。三枝昌貞の甥。

生涯

甲斐国巨摩郡に生まれる。徳川秀忠小姓となり、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの折には、父と共に会津征伐へ従軍。上方への転進後もそのまま秀忠軍として上田城攻めに従い、のちに500石を賜る。

その後、大坂の陣の戦功により3,500石を加増される。元和8年(1622年)、父とともに徳川忠長附きとなるが、父が死去すると、その遺領と合わせて田中城1万石を領し、後に5,000石を加増される。しかし陪臣であったため、この時点では大名とは扱われなかった。

寛永9年(1632年)、忠長の改易に伴い、陸奥棚倉藩内藤信照に預けられた。寛永13年(1636年)に赦されて幕臣となると、寛永15年2月8日1638年3月23日)には、安房国安房郡平群郡朝夷郡の3郡にまたがって1万石を与えられた。ここに大名として諸侯に列し、安房三枝藩を立藩した。

しかし翌寛永16年(1639年)に55歳で没した。

死後

家督を継いだ嫡男の守全は遺領1万石のうち、3,000石を次弟の諏訪頼増に分与したため、7,000石を領する旗本となった。子孫は守全・頼増の兄弟両系統ともに、旗本として存続している。





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