戦国時代・近世期の三枝氏
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三枝氏について『寛政重脩諸家譜』が詳しく記すのは戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代中期までである。三枝虎吉は武田氏に仕えて活躍し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡時には依田信蕃と一緒に駿河田中城に籠城した。武田方の城が次々に滅ぼされる中、虎吉らの籠城する田中城は陥落せず、成瀬正一や攻め手の矢文が主君武田勝頼の最期を伝えてきた。その時点では実際に勝頼が死亡したかは虎吉らにとっては不明であったが、穴山梅雪の使者が訪れたことにより城を退去した。その後虎吉は長恩寺に隠棲し、次に嫡男の三枝昌吉と一緒に徳川家康に面会した。その後は東雲寺に隠棲していたが、「織田信長が武田旧臣を捜し出して殺そうとしている」と聞きつけ、伊勢に逃走したという。 同年6月の本能寺の変で信長が死亡すると徳川家に呼び出され、その後子孫は徳川家の家臣になった。虎吉は徳川四奉行の一人となり、徳川氏の甲斐支配にも携わった。昌吉は徳川配下で活躍し、小田原征伐では頭を負傷して目に血が流れ込み、家臣に助けられて退いたという。昌吉はその後も戦に出ており、最後は大坂の陣まで出陣している。昌吉の子の三枝守昌の代から江戸幕府の寄合となった。
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