戦国時代、鉄砲伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:55 UTC 版)
13代恵時は島津家の勝久・貴久の抗争で貴久側につく。1543年(天文12年)、14代時堯の代に鉄砲が伝来。島の古来からの豊富な砂鉄をもとに国産化に成功したことはよく知られる。このために、鉄砲のことを「たねがしま」と呼ぶ俗称が生まれた。また、この頃、大隅国の禰寝氏(根占氏)と屋久島をめぐり激しく抗争している。禰寝氏は肝付氏と結び、種子島氏は島津氏と結んだ。これは「禰寝(根占)合戦」として知られる。 16代久時は島津氏に臣従し、それまで独自に行っていた琉球貿易権や屋久杉の伐採販売権も島津氏の手に渡った。文禄4年(1595年)、太閤検地に伴う所替えで薩摩国知覧に移封された。慶長3年(1598年)には薩摩藩の家老に任命され、江戸時代を通して家老の家柄として1万石の家格を保持した。翌年には知覧から旧領の種子島に移封されたが、屋久島は島津氏の直轄地のままで、鹿児島への在府を義務づけられた。
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