戦国時代・江戸時代とは? わかりやすく解説

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戦国時代・江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 03:39 UTC 版)

名馬一覧」の記事における「戦国時代・江戸時代」の解説

鬼鹿毛(おにかげ) 武田信玄の父である武田信虎愛馬。『甲陽軍鑑巻一によると体高は四尺八八寸148センチメートル)で、晴信(信玄)が鬼鹿毛所望したが信虎聞き入れなかったとする逸話記している。 黒雲くろくも武田信玄愛馬気性が非常に荒く信玄以外騎乗できなかったといわれる大鹿毛(おおかげ) 武田勝頼愛馬武田家滅亡後織田信忠愛馬となる。明智秀満愛馬同名だが、別の馬と思われる白石鹿毛しろいしかげ) 織田信長所有した名馬伊達輝宗から送られ奥州一と謳われた名馬小雲雀(こひばり) 織田信長から蒲生氏郷拝領した名馬大鹿毛(おおかげ) 明智光秀愛馬本能寺の変以後山崎の戦い敗報受けて坂本城への帰還目指す秀満が、大津にて秀吉派の軍勢阻まれた。そこで、陸路断念した主を乗せたまま琵琶湖湖水入り無事に泳ぎきって坂本帰還果たしたと言われている。 鏡栗毛(かがみくりげ) 山内一豊愛馬織田信長馬揃えの際、一豊の妻・千代見性院)は貯えていた嫁入り持参金を夫に渡し名馬鏡栗毛購入させた。馬を買った経緯は、ある商人東国一の馬を売ろう連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く仕方無く帰ろうとした所を山内一豊買った。それを聞いた信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えいだろう持って来た馬を、浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んだ帝釈栗毛たいしゃく くりげ) 加藤清正愛馬。「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛」と謳われたという。 内記黒(ないきぐろ) 豊臣秀吉から長宗我部元親拝領した名馬葦毛の馬である。戸次川の戦いにて仙石秀久無謀な策により、窮地陥った元親を乗せて命を救った。墓は高知県の元親の墓付近にある。 奥州驪(あうしうぐろ、おうしゅうぐろ) 豊臣秀吉中国大返し最初に騎乗した名馬湯浅常山著書常山紀談』巻の五によると、「秀吉奥州ぐろという名馬乗り雑卒にまじり、吉井川渡り片上備前市)を過ぎ、宇根兵庫県赤穂市有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、約25里を駆け抜けたとされている。 百段(ひゃくだん) 森長可愛馬。長可の居城金山城石段100段を駆け上る程の甲斐黒とされている。 膝突栗毛ひざつきくりげ) 島津義弘愛馬で、長寿院栗毛ちょうじゅいん くりげ)とも言われる木崎原の戦いに於いて敵将との一騎討ちの際に、膝を折り曲げて義弘危機回避した放生月毛ほうしょうつきげ) 上杉謙信愛馬川中島の戦いにおける武田信玄との一騎討ち騎乗していたと言われる月毛とはクリーム色の事である。 松風まつかぜ前田利益愛馬前田利家水風呂騙して入浴させ、前田家出奔した際に奪ったと言われている。別名谷風とも言われる漫画花の慶次』では、上野国厩橋城近くにいた事になっている白石しらいし徳川家康愛馬。名は「白」だが毛の色は黒。 三国黒(みくにぐろ) 本多忠勝愛馬徳川秀忠から拝領した関ヶ原の戦いで被矢。 太平楽たいへいらく豊臣秀頼愛馬天下一評され名馬であったが、大坂の陣主人乗せることは無かった真田栗毛(さなだくりげ) 真田信繁愛馬大坂の陣信繁戦死すると、褒美として松平忠直与えられた。後に改易されると配流先に連れて行った王庭(おうば) 佐久間象山愛馬白い馬京都三条木屋町暗殺された際に騎乗していた。 五島(ごとう) 後藤信康愛馬。のち伊達政宗献上されたが、大阪冬の陣の際は老齢理由に参陣を留め置かれた。そのこと嘆き悲しみ仙台城本丸から崖下身投げしたという伝説がある。

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戦国時代・江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:50 UTC 版)

津和野城」の記事における「戦国時代・江戸時代」の解説

吉見氏戦国時代には当初大内氏属していたが、11当主正頼大寧寺の変大内義隆滅ぼした陶晴賢に対して挙兵天文23年1554年)に100以上に及ぶ籠城戦生じた三本松城の戦い)。その後厳島の戦い勝利した毛利氏防長経略開始すると、吉見氏はその傘下入って引き続き津和野城居城とした。その後慶長5年1600年関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元総大将とする西軍敗れ毛利氏防長2か国に押し込められると、吉見氏津和野退去し移住した。 代わって東軍属した坂崎直盛が3万石(後に加増され43468石)で入城し石垣多用した近世城郭へと大改修行った大手位置吉見氏時代搦手側に改め出丸天守築いた。直盛は元和2年1616年)に千姫事件自害(または家臣殺されたとも)し、坂崎氏改易となった元和3年1617年因幡国鹿野藩鳥取県鳥取市鹿野町)より亀井政矩が43千石入城し以後明治維新まで11代にわたり亀井氏居城となった亀井氏により、山麓居館津和野藩邸)や外堀設けられて、城下町整備された。貞享3年1686年)城は落雷にあい火災発生したこの際天守焼失し以後再建されることはなかった。安永2年1773年)、京都伏見稲荷より勧請し、太皷の建つ城内一角太鼓谷の峰に太鼓谷稲成神社建立している。

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戦国時代・江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:56 UTC 版)

城氏 (平氏)」の記事における「戦国時代・江戸時代」の解説

戦国時代玉虫出身城景茂上杉謙信勘気を買い甲斐亡命武田信玄武田勝頼徳川家康仕え旗本として七千石、後改易。城信茂が徳川秀忠仕えて二千石知行地熊谷市石原付近城昌茂東漸寺(熊谷市)を開基した。

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戦国時代 - 江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 23:42 UTC 版)

中国地方」の記事における「戦国時代 - 江戸時代」の解説

戦国時代のこの地方大内氏武田氏山名氏赤松氏など守護大名戦国大名化したのが多かったが、京極氏下克上追い出した尼子氏出雲守護となると9カ国の太守となった16世紀前半には大内氏山陰山陽から北部九州跨がって勢力圏伸ばしその本拠地たる山口は「西京」(西の京都)と呼ばれるまでに繁盛した大内義隆守護代陶晴賢謀反自害すると、安芸国人衆の中で勢力伸ばした毛利元就陶氏尼子氏滅ぼし山陰山陽制覇した毛利氏山陽中南部広島拠点定めそれ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一都市となる。毛利氏は殆ど無傷のまま豊臣政権下でも勢力保った。 ところが、慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍石田三成徳川家康率い東軍敗れ毛利輝元大坂城退去すると、本拠地広島から萩移され長州藩)、領地東軍内応した吉川広家宛がわれる予定だった周防長門の2国に削減された。このほか備前宇喜多秀家西軍味方したため改易された。 江戸時代になると大小さまざまな大名領するようになった主な藩としては鳥取藩松江藩浜田藩津和野藩岡山藩津山藩福山藩広島藩岩国藩萩藩がある。このうち鳥取藩岡山藩池田家徳川家康血縁であり、福山藩徳川家康母方従兄弟である猛将水野勝成配されるなど幕府信頼度厚かった。ことに岡山広島は、藩内経済の進展手伝って江戸時代後期には日本十指に入る城下町へと成長した

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