戦国時代・江戸時代
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鬼鹿毛(おにかげ) 武田信玄の父である武田信虎の愛馬。『甲陽軍鑑』巻一によると体高は四尺八分八寸(148センチメートル)で、晴信(信玄)が鬼鹿毛を所望したが信虎は聞き入れなかったとする逸話を記している。 黒雲(くろくも) 武田信玄の愛馬。気性が非常に荒く、信玄以外騎乗できなかったといわれる。 大鹿毛(おおかげ) 武田勝頼の愛馬。武田家滅亡後、織田信忠の愛馬となる。明智秀満の愛馬と同名だが、別の馬と思われる。 白石鹿毛(しろいしかげ) 織田信長が所有した名馬。伊達輝宗から送られた奥州一と謳われた名馬。 小雲雀(こひばり) 織田信長から蒲生氏郷が拝領した名馬。 大鹿毛(おおかげ) 明智光秀の愛馬。本能寺の変以後、山崎の戦いの敗報を受けて坂本城への帰還を目指す秀満が、大津にて秀吉派の軍勢に阻まれた。そこで、陸路を断念した主を乗せたまま琵琶湖の湖水へ入り、無事に泳ぎきって坂本帰還を果たした、と言われている。 鏡栗毛(かがみくりげ) 山内一豊の愛馬。織田信長の馬揃えの際、一豊の妻・千代(見性院)は貯えていた嫁入りの持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方無く帰ろうとした所を山内一豊が買った。それを聞いた信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んだ。 帝釈栗毛(たいしゃく くりげ) 加藤清正の愛馬。「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛」と謳われたという。 内記黒(ないきぐろ) 豊臣秀吉から長宗我部元親が拝領した名馬。葦毛の馬である。戸次川の戦いにて仙石秀久の無謀な策により、窮地に陥った元親を乗せて命を救った。墓は高知県の元親の墓付近にある。 奥州驪(あうしうぐろ、おうしゅうぐろ) 豊臣秀吉が中国大返しで最初に騎乗した名馬。湯浅常山の著書『常山紀談』巻の五によると、「秀吉は奥州ぐろという名馬に乗り、雑卒にまじり、吉井川を渡り片上(備前市)を過ぎ、宇根(兵庫県赤穂市有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、約25里を駆け抜けたとされている。 百段(ひゃくだん) 森長可の愛馬。長可の居城・金山城の石段100段を駆け上る程の甲斐黒とされている。 膝突栗毛(ひざつきくりげ) 島津義弘の愛馬で、長寿院栗毛(ちょうじゅいん くりげ)とも言われる。木崎原の戦いに於いて敵将との一騎討ちの際に、膝を折り曲げて義弘の危機を回避した。 放生月毛(ほうしょうつきげ) 上杉謙信の愛馬。川中島の戦いにおける武田信玄との一騎討ちで騎乗していたと言われる。月毛とはクリーム色の事である。 松風(まつかぜ) 前田利益の愛馬。前田利家を水風呂に騙して入浴させ、前田家を出奔した際に奪ったと言われている。別名谷風とも言われる。漫画『花の慶次』では、上野国の厩橋城近くにいた事になっている。 白石(しらいし) 徳川家康の愛馬。名は「白」だが毛の色は黒。 三国黒(みくにぐろ) 本多忠勝の愛馬。徳川秀忠から拝領した。関ヶ原の戦いで被矢。 太平楽(たいへいらく) 豊臣秀頼の愛馬。天下一と評された名馬であったが、大坂の陣 で主人を乗せることは無かった。 真田栗毛(さなだくりげ) 真田信繁の愛馬。大坂の陣で信繁が戦死すると、褒美として松平忠直に与えられた。後に改易されると配流先にも連れて行った。 王庭(おうば) 佐久間象山の愛馬。白い馬で京都三条木屋町で暗殺された際に騎乗していた。 五島(ごとう) 後藤信康の愛馬。のち伊達政宗へ献上されたが、大阪冬の陣の際は老齢を理由に参陣を留め置かれた。そのことを嘆き悲しみ仙台城本丸から崖下へ身投げしたという伝説がある。
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戦国時代・江戸時代
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吉見氏は戦国時代には当初大内氏に属していたが、11代当主正頼は大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して挙兵。天文23年(1554年)に100日以上に及ぶ籠城戦が生じた(三本松城の戦い)。その後、厳島の戦いに勝利した毛利氏が防長経略を開始すると、吉見氏はその傘下に入って引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長2か国に押し込められると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。 代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。 元和3年(1617年)因幡国鹿野藩(鳥取県鳥取市鹿野町)より亀井政矩が4万3千石で入城し、以後明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。亀井氏により、山麓に居館(津和野藩邸)や外堀が設けられて、城下町が整備された。貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。安永2年(1773年)、京都伏見稲荷より勧請し、太皷櫓の建つ城内の一角太鼓谷の峰に太鼓谷稲成神社を建立している。
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戦国時代・江戸時代
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「城氏 (平氏)」の記事における「戦国時代・江戸時代」の解説
戦国時代に玉虫氏出身の城景茂が上杉謙信の勘気を買い甲斐に亡命。武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕え、旗本として七千石、後改易。城信茂が徳川秀忠に仕えて二千石。 知行地は熊谷市石原付近。城昌茂が東漸寺(熊谷市)を開基した。
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戦国時代 - 江戸時代
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戦国時代のこの地方は大内氏、武田氏、山名氏、赤松氏など守護大名が戦国大名化したのが多かったが、京極氏を下克上で追い出した尼子氏が出雲の守護となると9カ国の太守となった。16世紀前半には大内氏が山陰山陽から北部九州に跨がって勢力圏を伸ばし、その本拠地たる山口は「西京」(西の京都)と呼ばれるまでに繁盛した。大内義隆が守護代の陶晴賢の謀反で自害すると、安芸国人衆の中で勢力を伸ばした毛利元就が陶氏や尼子氏を滅ぼし山陰山陽を制覇した。毛利氏は山陽中南部の広島に拠点を定め、それ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一の都市となる。毛利氏は殆ど無傷のまま豊臣政権下でも勢力を保った。 ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成が徳川家康率いる東軍に敗れ毛利輝元も大坂城を退去すると、本拠地を広島から萩に移され(長州藩)、領地も東軍に内応した吉川広家に宛がわれる予定だった周防・長門の2国に削減された。このほか備前の宇喜多秀家も西軍に味方したため改易された。 江戸時代になると大小さまざまな大名が領するようになった。主な藩としては鳥取藩、松江藩、浜田藩、津和野藩、岡山藩、津山藩、福山藩、広島藩、岩国藩、萩藩がある。このうち、鳥取藩や岡山藩の池田家は徳川家康の血縁であり、福山藩は徳川家康の母方の従兄弟である猛将水野勝成を配されるなど幕府の信頼度も厚かった。ことに岡山と広島は、藩内経済の進展も手伝って、江戸時代後期には日本で十指に入る城下町へと成長した。
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