千姫事件とは? わかりやすく解説

千姫事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:01 UTC 版)

坂崎直盛」の記事における「千姫事件」の解説

元和元年1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康孫娘豊臣秀頼正室である千姫大坂城から救出したこの後千姫扱い巡って、直盛と幕府対立することになり、最終的に千姫奪おうとする事件起こしており、これが千姫事件と呼ばれる。 この千姫事件については、直盛が千姫再嫁させることを条件直接家康依頼受けていたが、これを反故にされたとする説[要出典]、家康千姫助けた者に千姫与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説がある。また直盛が千姫救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく千姫豊臣方武将である堀内氏久護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠元へ送り届けた、とする説[要出典]があり、この他、直盛が火傷負いながら千姫救出したにもかかわらず、その火傷見た千姫拒絶されたという説もある[要出典]が、このうち火傷に関して俗説であるという意見もある。 また、事件の原因としてはこうした千姫救出ではなく寡婦となった千姫身の振り方家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し縁組段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主の本多忠刻との縁組決まったため、面目潰されたという説もある。 いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画立てたとされるが、この計画幕府露見していた。幕府方坂崎屋敷包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君切腹させるわけにはいかない家臣拒否し討たれたという説、幕閣甘言乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説、立花宗茂計策により、柳生宗矩諫言感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩諫言感じ入ったという説に拠れば柳生家家紋柳生笠(二蓋笠)は坂崎家家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。 一方当時江戸滞在していたイギリス商館長リチャード・コックス日記によれば1616年10月10日夜遅く江戸市中騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれ武士が、皇帝将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し皇帝家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くし功績対し彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ是に於いて皇帝兵士一万余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等生命助け領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば皇帝は之を諾せし由なり。 とある。ともあれこの騒動結果大名坂崎氏断絶した石見中村家加賀三宅家など、出羽守の子孫と伝わる家も存在する)。 関ヶ原の戦い敗れ改易された出羽横手城主の小野寺義道は、津和野で直盛の庇護受けていた。直盛の死後13回忌に義道はその恩義報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく坂井出羽守と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる一説一時坂井酒井)を名乗っていたとも言われる)。

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千姫事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 04:37 UTC 版)

坂崎氏」の記事における「千姫事件」の解説

元和元年1615年)、大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は徳川家康依頼を受け、家康孫娘豊臣秀頼正妻である千姫大坂城から救出した。直盛は火傷負いながら千姫救出したにも関わらず、その火傷見た千姫拒絶されたことで、千姫奪取計画立て事件起こしたと言われている。しかし現在では彼が大坂城侵入して千姫直接救い出したこと自体疑われている(実際に千姫堀内氏久という豊臣方武将護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠元へ送り届けた、とする説が有力)。 この事件は秀頼死後寡婦となった千姫身の振り方家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し縁組段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩本多忠刻との縁組決まったため、面目つぶされた直盛が千姫奪回計画立てたと言われる。しかし幕府露見し一族によって自害させられたとも、柳生宗矩諫言感じ入って自害したとも言われている。 一方当時江戸滞在していたイギリス人リチャード・コックス日記には、「1616年10月10日夜遅く江戸市中騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれ武士が、皇帝将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し皇帝家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くし功績対し彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ是に於いて皇帝兵士一万余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等生命助け領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば皇帝は之を諾せし由なり」と書いてある。 ともあれ、この騒動結果津和野藩坂崎氏断絶した中村家などが子孫として続いている)。 墓所島根県津和野町永明寺関ヶ原の戦い敗れ改易された出羽国横手城小野寺義道は、津和野坂崎直盛庇護受けていた。直盛の死後13回忌小野寺義道はその恩義報いる為、この地に坂崎直盛の墓を建てたと言われている。 坂崎直盛一方的な横恋慕から藩の断絶遭ったとして凡将と評価されることがあるが、藩政においては善政行っており、また千姫事件は後世面白おかしく脚色されたことを考慮すべきである

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