千姫事件
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元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる。 この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説[要出典]、家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説[要出典]があり、この他、直盛が火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もある[要出典]が、このうち火傷に関しては俗説であるという意見もある。 また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主の本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰されたという説もある。 いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが、この計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。 一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記によれば、 1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。 とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(石見の中村家や加賀の三宅家など、出羽守の子孫と伝わる家も存在する)。 関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主の小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)。
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千姫事件
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元和元年(1615年)、大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は徳川家康の依頼を受け、家康の孫娘で豊臣秀頼の正妻である千姫を大坂城から救出した。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにも関わらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている。しかし現在では彼が大坂城に侵入して千姫を直接救い出したこと自体が疑われている(実際には千姫は堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。 この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったため、面目をつぶされた直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。しかし幕府に露見し、一族によって自害させられたとも、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。 一方、当時江戸に滞在していたイギリス人リチャード・コックスの日記には、「1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり」と書いてある。 ともあれ、この騒動の結果、津和野藩坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)。 墓所は島根県津和野町の永明寺。関ヶ原の戦いに敗れ改易された出羽国横手城主小野寺義道は、津和野で坂崎直盛の庇護を受けていた。直盛の死後13回忌に小野寺義道はその恩義に報いる為、この地に坂崎直盛の墓を建てたと言われている。 坂崎直盛は一方的な横恋慕から藩の断絶に遭ったとして凡将と評価されることがあるが、藩政においては善政を行っており、また千姫事件は後世に面白おかしく脚色されたことを考慮すべきである。
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