千姫との関係を示す物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:23 UTC 版)
東慶寺に伝える棟板に以下の墨書銘がある。 表面・右 大旦那征夷大将軍太政大臣従一位源朝臣秀忠公御息女天寿院御建立焉 表面・左 維持 寛永十一年十月吉日 住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚 弟子右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女法泰蔵主御寄進 裏面 当大樹乳母春日局御執持焉 表面・右の「天寿院」は千姫の生前の号、没後は「天樹院」と同じ読みでも字を変えている。表面・左の「法清和尚」は東慶寺十九世・瓊山法清尼、「秀頼公息女法泰」が天秀法泰尼である。裏面の「大樹」は将軍のことを指し、「当大樹」とは当時の将軍・徳川家光のことである。その「乳母(めのと)」春日局は、この頃大奥の公務を取り仕切っていた。 東慶寺の寺例書には「駿河大納言様の御殿御寄付…客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有」とある。「駿河大納言」とは家光や千姫と同様に淀殿の妹・崇源院を母にもつ徳川忠長であり、寛永10年(1633年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進されたのはその翌年の寛永11年(1634年)である。このような墨書銘は古建築の屋根の改修工事のときなどに見つかる。 「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主」とあるので、当時20代なかばであった天秀尼はまだ二十世住持にはなっていなかったことになる。「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつである。 寺伝や編纂物の歴史書以外に千姫との関係を示すものに書状等が十数通あり、『鎌倉市史』編纂時の昭和29年(1954年)に高柳光壽により整理解読された。その中には千姫にびわ、筍、花などを送ったことへの千姫侍女筆の礼状などもある。
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