鎌倉公方
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鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官[1]。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する[1]。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。
鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。
歴史

1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立(「観応の擾乱」に発展)した際、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した弟の足利基氏(尊氏の四男)を初代とする。
関東管領を補佐役として関東10か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まった。1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方足利氏満が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領上杉憲春が諫死したことで断念した。また、1399年の応永の乱に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方足利満兼が連合を組む。一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫した。
永享の乱の際には関東管領上杉憲実とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。
1447年に持氏の遺児である成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活する。後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を1570年代まで継続させており、北条氏が関東管領の権限を事実上掌握したあとも、関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。
その末裔は、後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉により喜連川に所領を与えられ、江戸時代には喜連川氏と称し、徳川将軍家の客分という特別な立場の大名家として存続した。明治時代に足利姓に復して子爵に叙せられた。
名称について
実際の史料では、「関東将軍」「
一説には、「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となったという。しかし『鎌倉市史』によるとこれは『足利治乱記』から出た謬説とされる[3]。『国史大辞典』でも、基氏のことを『園太暦』で「関東管領」と呼んでいるのは正式の称でなく、『武家補任』などで「鎌倉管領」と呼んでいるのも後世の書であるから信じられないとしている[4]。
歴代鎌倉公方
代 | 名前 | 在職期間 | 備考 |
---|---|---|---|
- | 足利義詮 | 1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年) - 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年) | |
初代 | 足利基氏 | 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年) - 1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年) | |
2代 | 足利氏満 | 1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年) - 1398年(応永5年) | |
3代 | 足利満兼 | 1398年(応永5年) - 1409年(応永16年) | |
4代 | 足利持氏 | 1409年(応永16年) - 1439年(永享11年) | 永享の乱で自刃。これによって鎌倉公方は一時断絶する。 |
5代 | 足利成氏 | 1449年(宝徳元年) - 1455年(康正元年) | 1455年に下総国古河へ移り、古河公方となる。 |
- | 足利政知 | (事実上、鎌倉公方として在職できず) | 1457年、鎌倉公方として幕府より派遣されるも鎌倉に入れず。伊豆国堀越に留まったため、堀越公方と称される。 |
- | 足利成氏 | 1483年(文明14年) - | 1483年、幕府との和睦(都鄙和睦)により、政治的に鎌倉公方として復権するが、鎌倉には戻らなかった。 |
※これ以降は、歴代古河公方を参照。
脚注
出典
参考文献
- 田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』[1]吉川弘文館、2002年 ISBN 4642077898
- 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏[2]』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6。
関連文献
- 植田真平『鎌倉公方と関東管領』[3]〈対決の東国史 4〉吉川弘文館、 2022年1月 ISBN 9784642068703
関連項目
関東公方家
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尊氏の子で関東支配のために父によって派遣された鎌倉公方・足利基氏は鎌倉を中心として関東を支配した。しかし基氏の死後、その子孫は京都の室町幕府将軍家と対立・抗争を繰り返し、遂に第4代公方・足利持氏に至っては第6代将軍・足利義教と衝突する事態に至った(永享の乱)。この戦いに敗れた持氏は義教の命令で自害を余儀なくされ、鎌倉公方家は滅亡した。 しかし義教の死後、義教によって助命されていた持氏の末子・足利成氏が足利義政より再興を許されて、第5代鎌倉公方となった。しかし成氏は関東管領の上杉氏と対立し、鎌倉を放棄して下総古河に移って古河公方と称した。成氏の死後、古河公方家では内紛が相次いで衰退し、第5代公方・足利義氏が天正11年(1583年)に死去すると、古河公方家は断絶した。 なお、足利義政の弟・足利政知から始まる堀越公方家は、第2代公方・足利茶々丸の時代に北条早雲によって滅ぼされた。第2代古河公方である足利政氏の次男・足利義明から始まる小弓公方家も天文7年(1538年)に北条氏綱によって滅ぼされた。こうして戦国時代までに、関東足利氏は政治の表舞台からことごとく姿を消すこととなる。 しかし義明の孫・足利国朝は室町幕府滅亡後、天下人となった豊臣秀吉に関東公方の足利氏再興を許されて、足利義氏の娘と結婚した上で下野喜連川に領地を与えられた。のちに喜連川氏に改め、その子孫は江戸時代には禄高5000石ながら10万石格の国主大名待遇の家として存続した(喜連川藩)。 徳川幕府滅亡後の1868年(明治元年)、当時の当主喜連川縄氏は、徳川将軍家を憚って使用を避けてきた「足利」に復姓した。1870年(明治3年)7月17日に廃藩置県に先立って管地を奉還した。 華族令施行後の1884年(明治17年)7月8日に当時の当主足利於菟丸が子爵に叙せられた。 昭和前期に足利子爵家の邸宅は京都市上京区衣笠天神森町にあった。 喜連川系足利家は当主であった足利惇氏の死後、惇氏の甥の足利浩平が継いだ。
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