昭和前期
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昭和前期の日本海軍は特設艦艇の建造に特に熱心であった。軍縮条約および予算の制限により、補助艦艇の不足を感じていた日本海軍は、1937年(昭和12年)の「優秀船舶建造助成施設」に基づき、民間の優秀船舶が建造される際に補助金を出していた。これは、戦時には徴用され、特設艦艇に改装されることが条件であった。そのため、ハッチの大きさや位置の海軍規格化、大砲設置のための構造強化、飛行甲板設置のための甲板構造設計などが行われていた。
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昭和前期
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1928年(昭和3年)、大塚は上京してきた摩文仁賢和に型を習うために師事した。のちに糸東流の開祖となる摩文仁は当時すでに那覇手および首里手に伝わる膨大な数の型を習得しており、大塚は摩文仁から三十から四十くらいの型を学んだと言われる。 しかし、大塚が本当に指導したのは、9つの型(平安初段~五段、ナイハンチ、セイシャン、チントウ、公相君)で、そのうちでも特に重視したのはナイハンチ、セイシャン、平安初段・四段のみであった。型をたくさん覚えても時間の無駄であるという考えからであった。現代の和道流では、平安初段~五段、ナイハンチ(他流派のナイファンチもしくは鉄騎の「初段」に相当)、セイシャン、チントウ、クーシャンク―(公相君)に加えて、ニーセイシ、バッサイ、ローハイ、ジオン、ジッテ、ワンシュウ、そして初心者向けに考案された簡素な「基本形」の、全16種類の形が残されている。 翌1929年(昭和4年)、大塚は本部朝基にも師事した。型だけでなく組手も重視する本部の空手観は、大塚に大きな影響を及ぼした。後年、大塚は「本部氏は今まで自分の会った琉球の空手家の内ではもっとも傑出した人であり、常に往来して懇意の間柄であったので、大いに啓発されたところが多い」。と語っている。本部に師事した頃から、大塚は組手試合の研究を始めた。しかし、この事が原因となって、大塚は次第に船越と不和になっていった。船越は「大塚は柔術の習慣を勝手に取り入れている」と非難したと伝えられる。同年、大塚は日本古武道振興会を発足させた。 1931年(昭和6年)、東京代々木上原にある柳生神影流(江戸系統の新陰流)の久保義八郎の大日本忠孝館道場を借りて、仮道場を開いた。1934年(昭和9年)、正式に大日本空手道振興倶楽部という道場を開設した。1938年(昭和13年)、大日本武徳会から錬士号を授与される。また、自身の流派名を神州和道流空手術(翌年、和道流に改名)とした。 大塚は日本古来の剣術にも興味を示し、道場を借りていた久保義八郎に、1938年(昭和13年)頃から柳生神影流を学んでいる。また日本古武道振興会の活動を通じて、富田流小太刀の演武を見て魅せられた大塚は富田流を独学で研究。その成果を和道流空手の「体捌き」や「技法」に取り入れた。 1959年(昭和34年)全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)発足の際には、約束組手の考案など、元々組手の体系化に尽力していた大塚は顧問として名を連ねる。
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昭和前期
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1938年(昭和13年)、石井桃子により「白林少年館」が開設される。 1942年(昭和17年)、山本有三により「ミタカ少国民文庫」が開設される。 1946年(昭和21年)、東京都瑞穂第一国民学校教師の斎藤尚吾により「みづほ文庫」が開設される。 1947年(昭和22年)、東京都杉並区に地元の有志により「すいれん文庫」が開設される。
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昭和前期
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1926年9月23日に、山陽本線特急列車脱線事故が発生、被害が拡大した原因の一つが、木造客車の脆弱性にあると考えられたため、鉄道省は翌年度から木造客車の製造を中止して鋼製客車の製造に切り替えたと、新聞では言われているが、鉄道省ではこの3年前の大正12年(1923年)頃に乗客の安全のためなどに客車鋼製化の話が起こっており、その後外国鋼製車の比較調査を行い、大正14年試験設計計算・同15年度本設計・製作着手の上、昭和2年(1927年)3月に最初の鋼製客車を製造したという。 また、この設計の中心的だった朝倉希一も「そこで大正13年、私が車両課長となると、鋼製車に経験を有する日本車輛会社や川崎車輛会社の意見を聞いて鋼製車を設計し、大正15年から実施した。」と証言しており、鋼製車製造計画は事故以前からあったという。 これら最初の鋼製車は2軸ボギー車は車体長17 m、優等車を中心とする3軸ボギー車は20 mでオハ31系と呼ばれる。 詳細は「国鉄オハ31系客車」を参照 素材こそ鋼製に変わったものの、車体構造は木造制式客車とほとんど変わらず、魚腹形の強固な台枠を備え、その上に鋼材による柱や梁を組立てて、そこに外板をリベットを用いて打ち付ける、という従来通りの構造設計が採られている。これは設計にかかわった朝倉希一によると「(木製から鋼製への)意向を容易にするため、初めは柱を形鋼とし、屋根は従来のままとした(中略)内側の化粧張りなどはそのままであった。」とのことであるが、単純に木を鋼に置き換えただけではなく熱伝導の違いもあるので断熱材として馬毛フェルトを使用したり、表面の鋼板がデコボコしてしまうのでお灸をすえると称して所々熱して急に水をかけて平らにするという苦労があった他、木造車では車体が垂れるため後からでもトラスロッドのねじで台枠を変形して調節できるようになっていたが、鋼製車では台枠と車体が一体なので設計には苦労があったという。 また、鋼製車使用当初は「鋼製車が頑丈なのはよいが、鋼製車と木造車を混結している時に事故が起きた場合、木造車がよりひどく損傷するのではないか?」という懸念もあったが、実際には一番乗客の被害が大きくなる「衝突で一方がせりあがって台枠(木造車でもここは鋼製)が相手の車体に突き刺さる(当然木の柱は耐えられずに折れ、客室が破壊される。)」というケース(テレスコーピング現象)では、鋼製車が相手なら鋼製の妻板全体が激突するので、車体同士がお互い入り込んで破壊することがなくかえって安全であるという計算になり、実際の事故でも立証されたという。 他に計算外だったこととして鋼製客車完成後に実施された荷重試験で、木造車と違い鋼製車では側構が荷重を負担でき必ずしも台枠を魚腹形とする必要はないことが判明した。その結果、1929年から製造したスハ32系以降の客車台枠は車体長は等級・用途を問わず、全ての車種で20 mに統一され(長形)、原則的に溝形鋼を用いた、単純で軽量な長形台枠に変更され、例外的に郵便車・荷物車などは開口部が大きいので頑丈な魚腹形台枠をもうしばらく採用していたが、これも昭和6年(1931年)のマニ36700形(後のマニ31)で溝形鋼通し台枠にされた。 この長形客車も初期に製造された車両では、屋根は二重屋根(もや屋根とも言う)となっていた。この方式は、段差の部分に採光窓を設けることができるなどの利点があったが、構造が複雑で製造上工数もコストも大きかった。そこで単純な丸屋根への変更が検討されたものの、当初は形状が大きく変わることへの反対が大きく、実施には至らなかったが、1931年に製造された初の三等寝台車である30000形(のちのスハネ30形)において上段寝台のスペースを確保する目的で丸屋根が採用され、工数とコストの削減が確認された結果、他の車両についても増備車は丸屋根とすることとなり、1932年以降の新造車は全て丸屋根に変更となった。なお、この時欧州風切妻車体も考慮されたが、連結時の外観の違いなどから一般では見送られ、独自の編成を組む御料車・供奉車のみ昭和6年(1931年)新製から変更になった。 詳細は「国鉄スハ32系客車」を参照 ブレーキについては、従来客車では真空ブレーキが用いられていたところ、1919年に直通空気ブレーキの採用が決定された。客車は1929年から取付をはじめ、1931年7月までに全客車の改造を完成して,空気ブレーキに統一された。この空気ブレーキ採用の副次的効果として、圧縮空気タンクの標準装備化で空気圧を車内設備に使用できるようになり、これまで屋根上に設けられていた水タンクから重力で水を落とす機構を床下のタンクから水を押し上げられるようになったことで、水容量が屋根水タンク時代357リットルから床下タンク化で約500リットルに増加した。 なお1928年には、大幅な称号規程の改正が行われ、形式に大きな変更があった。 その改良形として、1930年代後半よりオハ35系の各車種が製造された。構造面では従来600 mm幅が標準であった側窓が1,000 mm幅を標準とするように変更され、過剰な補強材の省略、リベット接合が多用されていた組み立ての溶接への移行が進むなど、スハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施され軽量化されているのが特徴である。ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって継続された結果、車体構造は製造時期によって大きく異なる。 詳細は「国鉄オハ35系客車」を参照 1941年には、鋼製客車について大きな称号規程の改正が行われ、形式に大きな変更があった。 1943年2月、東海道線通勤列車の混雑緩和のために、座席の一部を外した車両の増結が開始された。この車両は出入り口付近の座席24人(/両)分を取り外したもので後の通勤型電車、近郊型電車の座席配列に近いものとなった。
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