昭和前半期以前に発足した団体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 14:04 UTC 版)
「少女歌劇」の記事における「昭和前半期以前に発足した団体」の解説
赤玉少女歌劇団(大阪・キャバレー赤玉):1927(昭和2)- 1936(昭和11)。 芦屋少女歌劇(西宮・香枦園浜):大正末頃-? 粟ヶ崎少女歌劇団(石川県河北郡内灘町・粟ヶ崎海岸):1928(昭和3) - 1941(昭和16)。 大浴場・動物園などを有する粟崎遊園内の、1000人規模の大劇場にて活動。最盛期には約40名の団員がおり、本格的なオリジナルレビューを上演した。1937年(昭和12年)には粟崎遊園歌劇学校を併設。「北陸のタカラヅカ」と謳われた。 いく代舞踊部(札幌市・いく代亭):1927(昭和2)- 1947(昭和22)。 市岡パラダイス少女歌劇(大阪市・市岡パラダイス):大正末-? 色葉少女歌劇(大阪市・新世界・いろは座):詳細不明。 大市乙女ダンス(おうちおとめだんす)(大阪・生駒山上遊園地大市温泉閣):昭和初期-? 大阪アカネ学院(大阪市):大正末 - 昭和初期頃(詳細不明) 『児童劇コンキチ狐』『第一の夜』などのお伽歌劇風のレコードがある。 大阪お伽学院(大阪市・天下茶屋 - 一部は後に芦屋少女歌劇に合流)。 大阪舞踊協会(大阪):大正末頃。 詳細不明。 大浜少女歌劇(堺市・大浜潮湯):1924(大正13)- 1934(昭和9)。 「大浜潮湯」の併設アトラクションとして発足し人気を博したが、室戸台風により専用劇場が大きな被害を受け解散。詳細は堺少女歌劇団を参照のこと。 花月園少女歌劇(横浜市・鶴見花月園):1922(大正11)- 1940(昭和15)頃。 花月乙女舞踊団(大阪・新世界・芦辺館):1926(大正15)- ? 河合ダンス(大阪市・道頓堀):1922(大正11)- 1937(昭和12)頃。 銀の星少女歌劇団(新潟県吉田町):1947(昭和22)- 1950(昭和25)。 甲陽少女歌劇(西宮・甲陽園):大正頃。 国華少女歌劇(各地巡業):大正末頃 詳細不明。 塩江温泉少女歌劇(香川県塩江温泉・花屋旅館):1929(昭和4)- 1940(昭和15) ここでは少女ジャズバンドも売り物の一つであった。 松竹少女歌劇団(東京):1928(昭和3)-1996(平成10) 最初は東京松竹楽劇部、1930年に松竹少女歌劇部、1931年に松竹少女歌劇団と改名し、同年松竹少女歌劇学校を設立。戦争の苦難を乗り切り、1947年から松竹歌劇団(SKD)として再結成し、浅草の国際劇場を本拠地に1950年代を頂点に人気を集めたが、やがて衰退。1990年にレビューを中止しミュージカル劇団へ改組するも1996年に解散。入団は独自の養成機関:松竹音楽舞踊学校(三年制→二年制)出身者に限られた。 白木屋少女音楽隊(東京):1911(明治44)- 1917(大正6) 三越少年音楽隊に対抗して東京日本橋の白木屋呉服店が店舗大改築に併せて組織した日本最初の少女歌劇。余興場と称された本店三階の劇場で歌舞、コミックオペラ、お伽歌劇などを上演。彼女達のために作られた吉丸一昌作詞本居長世作曲の『うかれ達磨』は特に人気となり、後に宝塚少女歌劇団など他の歌劇団や、女学校の音楽会でも演じられた。 青黛座(せいたいざ)(福岡市):1923(大正12)- 1927(昭和2)。 だるま屋少女歌劇部(DSK)(福井市・だるまや百貨店):1931- 1936(昭和11) 百貨店の少女店員による本格的少女歌劇。 鶴見園女優歌劇(大分県別府市・鶴見園):1925(大正14)- 1943(昭和18) 600人収容の大劇場でレビュー、股旅物、軽演劇などを上演。「九州の宝塚」と呼ばれた。 鶴見花月園少女歌劇団(横浜市・花月園遊園地):? 東京少女歌劇団(東京-名古屋):1917(大正6)- ? 鈴木康義が浅草三友館で旗揚げし、日本館などにも出演した。日本ものの歌劇を売り物として、浅草オペラ全盛の時代に各歌劇団の間に介在し、かなりの人気を博したという。日本歌劇協会、ビューチー一座、エンパイヤ歌劇団、アサヒ歌劇団(旭少女歌劇団)などの名称を経、その後名古屋を本拠地に活動したともいう。この間には男性も加わったこともあり、藤原義江のオペラ初舞台は浅草のアサヒ歌劇団であった。女優・谷崎歳子(江利チエミの母)がここで活躍した。 浪華少女歌劇団(大阪市・楽天地):1921(大正10)- 1922(大正11) 女優・浦辺粂子が浅草の根岸大歌劇団のコーラスガールをやめ、この歌劇団に所属したことがある。 日劇少女歌劇団(東京市・日本劇場):1934(昭和9)- ? 詳細不明。 1934年の日劇こけら落しに出演した「日本劇場レヴユウ団」と同じものか? 日本少女歌劇(東大阪・日下遊園地):大正頃。 当初大阪で活動していた日本少女歌劇団と同じものか? 日本少女歌劇団(各地巡業):1926(大正15)頃 - 1955(昭和30)頃。 島幹雄(本名・富永朝太郎)が創設し団長も務めた。大阪府東大阪市の近鉄石切駅近くにあった日下温泉の余興として大正後期に始まり、その後、奈良県大和郡山市に本社を置く島興行社が運営した。本社のある大和郡山を拠点としたが、専用劇場は持たずに地方巡演に徹し、公演は北海道から九州まで全国各地に及び、さらに昭和初めから台湾や朝鮮、満州など外地にも進出していた。別名日本少女歌劇座。公演の前に行われる劇団の野球部と地元チームの試合の観戦案内の記載もある。1949年8月16日には福島県松川町で1日のみの公演を行い、一泊して翌日に移動したことから、同年8月17日未明に同町で起こった松川事件と関係を疑われ、1964年の国会(衆議院法務委員会)でも取り上げられており、機関誌や日誌が証拠物件として提出されたとされる。 博多少女歌劇団 (博多・福岡県)1922 - 1927 井上胡蝶が発足。 日舞、バレエ、タップダンスなどを取り入れ、自作自演の歌劇の公演をした。全国各地、樺太 旧満州でも公演を行った。 博多少女歌劇育成会青黛座を作り、一般から生徒を募集した。 羽田別荘少女歌劇団(広島市・羽田別荘):1918(大正7)- 1941(昭和16) 「ハダカゲキ(羽田歌劇)」の通称で人気を集めたという 琵琶少女歌劇(大阪市・楽天地):1919(大正8)- 1923(大正12) 琵琶を用いた和風の少女歌劇。田中絹代はここで人気となった。 富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場処女会(神奈川県横浜市保土ヶ谷):1920(大正9)? 富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場に務める寄宿工女で構成された処女会(女子青年団)が年2度の大会で上演していた。処女会に所属する工女は、比較的教養が豊かであるという条件で選出され、他の工女の模範とされた。処女会は工女の修養機関としての機能も持たされ少女歌劇の上演はその一環だった。その目的に従って歌劇の演目は当時の雇用者にとって理想的な労働と奉仕の精神を説く内容だった。 先斗町少女レヴュー団(京都市):昭和初期頃。 一般公演のほか、映画『人肌観音 第一篇』(1937・松竹下加茂)にも応援出演。詳細不明。おそらくは先斗町の鴨川をどりのグループ。 山根少女団(地方巡業):大正頃?- 昭和初期? 詳細不明。 山根曲馬団が折からのレビューブームを取り入れる中で一時名乗ったもの。山根少女歌劇団の名称もある。元々がサーカスチームであることを生かし、綱渡りなど本物の曲芸を盛り込んだ「サーカス・レビュー」などで人気を博したという。 若柳少女歌劇:昭和30年代 詳細不明。 1959年3月23日-24日に福岡県飯塚市・嘉穂劇場で公演した記録がある。若柳流による鴨川をどりなどの舞踊劇に似たものか?
※この「昭和前半期以前に発足した団体」の解説は、「少女歌劇」の解説の一部です。
「昭和前半期以前に発足した団体」を含む「少女歌劇」の記事については、「少女歌劇」の概要を参照ください。
- 昭和前半期以前に発足した団体のページへのリンク