大正~昭和前期
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大正から昭和前期にかけ、日本でも鉄道網が発達したことにより、上流階級の間に広まっていく。例えば、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)は1924年(大正13年)1月に婚姻し、夏を福島県猪苗代町の高松宮翁島別邸(現天鏡閣)で過ごした。また高松宮宣仁親王と徳川喜久子は、1929年(昭和4年)に婚姻し、翌1930年(昭和5年)に欧州を1年以上にわたって長期訪問している。 ただし、旧民法下では家制度における戸主権が強大で「家同士の結婚」という価値観であったため、「夫婦二人のための自由旅行」は否定的に捉えられていた。例えば、下田歌子は礼法書で、新婚旅行に否定的な見解を示す一方、従前からの「里帰り」「婿入り」の風習を推奨している。
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大正~昭和前期
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C. J. L. ベーツは、それまでの学院が米国南メソジスト教会単独での経営であったのに対し、カナダ・日本両メソジスト教会との3者共同経営に変わったのを受けて、カナダを代表する形で赴任した人である。前任者の米人ニュートンが南軍の元将校であり、スポーツをよくしない者が牧師になることを嫌ったというくらい勇猛な院長であったのに対し、ベーツは牧師一家の出であったこともあり、その誠実で柔和な人柄が長く慕われたようである。スクールモットーMastery for Serviceも彼の提唱による。関西学院での在職期間は30年以上にも及び、この間に上ヶ原移転、大学(専門部)の設置など、学院の骨格に当たる部分が作られており、まだ少年期にあった関学を青年期へと導いた人物といえる。
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大正・昭和前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 06:45 UTC 版)
大正時代になると、自動車のエンジンを舶載化したモーターボートが登場し、自動車になぞらえて「自動艇」と称されていた。警視庁でも1912年(大正元年)より採用を開始しており、昭和期以降の警察用船舶ではこちらが主力になっていった。いずれも1~4総トン足らずの小型艇だったが、従来の蒸気機関よりも起動性に優れ、任務に適した艇であった。この時期に、日本の警察用船舶の基本が確立された、と評価されている。1923年の関東大震災では、警視庁の船舶のうち2隻を焼失したものの、近隣の漁業組合から船を借り受けるなどして、93,000名を救助し、水死体2,336柱を収容した。 一方、少数ながら蒸気船の運用も継続された。1925年に新造された弥生丸は56.7総トンと大きく、水上警察署を代表する船であった。佃の渡しなど75ヶ所に及ぶ渡船場の取締りに従事したが、即応性に優れた自動艇の普及によって使用機会が激減し、1939年に廃船となった。また1927年には、大日本帝国海軍を退役した春雨型駆逐艦「有明」が警察所有となったが、大きな船体と起動に手間どる蒸気機関を持て余し、船齢20年以上という老朽船だったこともあって、わずか1年で廃船になった。なお同船は、現在に至るまで、警察用船舶としては最大の記録を維持している。 太平洋戦争中には燃料不足のため活動が制約されたものの、日本本土空襲の際には消火や水難者の救助、収容に活躍した。戦争中、警視庁の船舶に直接の被害はなかったが、終戦当時保有していた12隻のうち、稼働状態にあったのは6隻に過ぎなかった。また日本の降伏後には、占領軍兵士がプライベート用として勝手に8隻を持ち出して、一部は回収できずに行方知れずとなる事件もあった。
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