山陽本線特急列車脱線事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 23:11 UTC 版)
山陽本線特急列車脱線事故(さんようほんせんとっきゅうれっしゃだっせんじこ)とは、1926年(大正15年)に鉄道省山陽本線安芸中野駅 - 海田市駅間で発生した列車脱線事故である。
注釈
- ^ ただし、『中外商業新報』では「山陽線の衝突惨事が動機となって」とはあるが「(鋼製客車の)成績は大変良好なので最初本年(注:1927年)の新造車六百両のうち三百両をスチールにする予定であったのを~」と「国鉄は木造車だけのつもりだったが事故を教訓に製造を打ち切って急遽鋼製車に置き換えた」ではなく「元々鋼製車を半分・木造車と両立で製造開始の予定だった」としている。
- ^ 朝倉は名前を挙げていないが、時系列的に該当するのは日本初の鋼製車である大正12(1923)年に川崎造船で製造された神戸市電200形(初代、G車)。
((福原2007)p.74-77「2-1 鋼製車体と電動発電機の誕生」)。 - ^ 朝倉は半鋼製車を含めて「鋼製」と言っており、オハ31も前述の神戸市電の電車も厳密には「半鋼製車」である。
- ^ 鋼製客車は自身が頑丈なだけではなく、編成に木造車がいる場合でも一番危険な「鋼製の台枠が木造車体に深く食い込む」が防止できる(薄い台枠ではなく鋼鉄製の妻面全体でぶつかるので衝撃が分散する)ので安全だという計算になり混結を実施した所、この「鋼製客車と木造客車の混結時に起きた」事故で木造車も被害が少ないと立証されたという。
出典
- ^ 「むごたらしい転覆現場、死者は三十八人」『東京朝日新聞』1926年9月24日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.237 毎日コミュニケーションズ 1994年)
- ^ 「惨事の原因は不徹底な水害応急工事」『大阪毎日新聞』1926年9月26日広島・山口版(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.238 毎日コミュニケーションズ 1994年)
- ^ “鉄道災害記事、昭和元・2年度 四、山陽本線安藝中野 ー 海田市間に於ける旅客列車脱線”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. 2022年9月12日閲覧。
- ^ 大阪朝日新聞 1926年9月23日夕刊1面「転覆の原因判明す 夜来の豪雨で再び線路破壊 急停車の信号間に合はず」
- ^ 小田急電鉄株式会社社史編集事務局『小田急五十年史』 1980年12月、小田急電鉄、90-92ページ
- ^ 「本年の新造車全部を鋼鉄製に」1927年2月17日付中外商業新報(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ^ (星1962)略史p.10「5.1 最初の鋼製客車」
- ^ (朝倉1980-1)p.106
- ^ (朝倉1980-1)p.106-107
- 1 山陽本線特急列車脱線事故とは
- 2 山陽本線特急列車脱線事故の概要
- 3 事故後の対策
- 4 関連・参考文献
- 5 関連項目
山陽本線特急列車脱線事故
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「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「山陽本線特急列車脱線事故」の解説
1926年(大正15年)9月23日 山陽本線安芸中野駅 - 海田市駅間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り特急第1列車(事故後の1929年(昭和4年)に「富士」と命名)がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34名が死亡した。 事故列車はヨーロッパ - アジア間国際連絡運輸の一部を担うものであり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故と参宮線における事故により木造車両の製造を中止し、翌年から鋼製客車が製造されるようになった。 詳細は「山陽本線特急列車脱線事故」を参照
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