耐震建築と不燃化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:40 UTC 版)
上述の通り、大震災ではレンガ造りの建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルディングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部や丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3か月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。 すでに1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布され1920年(大正9年)に施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、のちの建築基準法の基となった。1925年(大正14年)には耐震耐火建築のさきがけとなったW・M・ヴォーリズ建築事務所設計の主婦之友社本社建物(現お茶の水スクエア)が竣工し、ほかに初の洋風アパートとなった御茶ノ水文化アパートも完成した。 一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所要所に配置し、広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれるようになった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、のちに後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。 鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼けた教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになった。1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車ともに1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。
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