山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱」の解説
大正末期から昭和初期の大嶺炭田は、大嶺海軍採炭支所(海軍練炭製造所採炭部)いわゆる海軍炭鉱の後身である山陽無煙炭鉱と、野口遵の大嶺無煙炭鉱の2社の鼎立状態となった。1924年(大正13年)1月に発足した山陽無煙炭鉱は深部の石炭採掘を中止し、露頭での露天掘りに加え、海軍時代に低質炭として捨ててきた石炭を再選別の上で市場に出荷するという経営戦略を取り、低コストを武器に市場拡大に成功する。山陽無煙炭鉱の無煙炭は大嶺炭田の特徴通り粉炭が多く、露天掘りの良質粉炭は特粉と名付け、家庭用練炭原料として出荷した。その他の露天掘り粉炭、そして海軍時代の低質炭を再選別した粉炭は並粉と名付け、主に養蚕用大型練炭の原料として販売した。 一方、産出される石炭の販路拡大に成功した大嶺無煙炭鉱は、1923年(大正12年)には年間1万トン以上の出炭をしていた横道炭鉱を買収し、翌1924年(大正13年)には選炭機能の改善のために水選機を設置し、坑口から大嶺駅までの約5キロメートルの馬車鉄道を6トンの蒸気機関車牽引による運炭にするなど、積極的な事業拡大に乗り出した。なお6トンの蒸気機関車は豆汽車と呼ばれ、狭い山間部を縫うように走行したため、しばしば山火事を起こしていたという。また線形も良くなかったため脱線も多く、炭車に脱線対応の係員を乗せて運行していたと伝えられている。 山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱という2大勢力の鼎立は、必然的に両者の激しい競争を招くことになった。両社ともライバルの得意分野への食い込みを図った。大嶺無煙炭鉱は粉炭が主力の山陽無煙炭鉱対策として、小塊炭を洗浄した上で粉砕し、粉炭を生成した。この粉炭は灰分では目的通りの品質を達成できたものの粉炭の粒度が荒く、山陽無煙炭鉱の粉炭、特に特粉には対抗できなかった。そこで長尾炭鉱を買収し、産出された粉炭の中から長尾特粉を商品化して市場に送り出し、山陽無煙炭鉱の市場を脅かした。一方、山陽無煙炭鉱側は塊炭に強さを発揮する大嶺無煙炭鉱に対抗すべく、猪ノ木層の無煙炭が塊炭質であることに着目して、荒川坑を再開して大嶺炭田初の機械による採炭を開始し、山陽猪ノ木塊を商品化して大嶺無煙炭鉱の塊炭販路への進出を図った。また大嶺無煙炭鉱は山陽無煙炭鉱よりも優位に立とうと鉱区買収を積極的に行った。小田層の石炭が分布する大嶺炭田西部の4鉱区を買収し、山陽無煙炭鉱の鉱区を包囲していくことをもくろんだのである。そして大嶺無煙炭鉱は大正時代末期に小田層の石炭採掘を手掛けた。 ところで大正時代末期、第一次世界大戦終了後の不況の影響を受けて日本各地の炭鉱が経営に苦心していたのに対し、大嶺炭田の炭鉱は前述したように無煙炭の販路拡大に成功したため、経営は好調であった。山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の競合は価格面での値下げ競争も伴ったため、昭和に入ると利益率が低下してきたものの、それでも1929年(昭和4年)頃までは堅調な業績を維持していた。しかしこの頃から安価かつ高品質の移輸入無煙炭が市場で大量に取引されるようになり、大嶺炭田の無煙炭の売れ行きは悪化してきた。同じ頃、これまで好調を維持してきた山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱両社の採炭状況に変化が見えてきた。まず露頭での露天掘りに加え、海軍時代に低質炭として捨ててきた石炭を再選別の上で市場に出荷するという経営戦略を取っていた山陽無煙炭鉱は、1930年(昭和5年)頃になると露頭部の良質な石炭と海軍時代に低質炭として捨ててきた石炭が枯渇してきたため、深部の採炭に乗り出さざるを得なくなっていた。一方、大嶺無煙炭鉱も塊炭の採掘状況に陰りが見え始めていた。無煙炭の売れ行き悪化に加えて採炭状況の変化という経営面での大きな不安材料を抱えるようになった山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱は、このまま競合を続けていけば共倒れになりかねないとの危機感を抱くようになった。この事態に動いたのは大嶺無煙炭鉱の野口遵であった。昭和初期、野口は事業の中核を朝鮮半島に移していた。そういう中での大嶺無煙炭鉱の経営不安は、事業継続に対する意欲を失わせていった。そこで野口は1931年(昭和6年)6月、大嶺炭鉱を山陽無煙炭鉱株式会社に売却し、山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の競合時代は幕を閉じることになった。
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